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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

機械工学科 の最近のブログ記事

機械工学科 福江 高志 准教授 故郷の富山県立大学で博士課程を終えられた福江先生は思いがけもなくオランダのデルフト工科大に留学することになった。

――デルフト工科大ではどんな資格で何を研究されたのですか?

 「ゲストリサーチャーという立場でして基本的には"お客様"です。

私が所属していたのはインダストリアル・デザイン・エンジニアリングという学部です。つまりデザインを専門にしているところなので、コンピューターを使った大規模な解析とかタービンそのものを持ってきて実験してみるとか日本の工学系のような設備はないのです。

 その代わりデルフトでは建築の梁なら梁の部分だけを丹念にシミュレーションしていたのです。全体ではなくて。私からすると、なぜそんな部分だけを、計算でも分かるようなことをやるのだろうと、すごく思ったのです。当時の私は大規模解析が大好きな人間でしたので。

 今、振り返ってみると、デルフトの研究室でやっていたのは、大事なところだけをしっかりパラメータ化して、設計の勘所をちゃんと押さえて応用しましょうということだったのだと。やはりデルフトは凄いと」

――コンピューターによる解析、設計が進み過ぎて最初から頼り過ぎてしまっている。設計の原点に返ろうということでしょうか?

 「そうです。ちょっと前、7~8年前ですかね。いわゆるコンピューター・シミュレーションが設計現場に一挙に普及したときがあって、その時は関連する大学の研究室はコンピューター・シミュレーションのお悩み相談室みたいになってしまったのです。

 典型的なのは、シミュレーションでこんな結果がでたけど正しいですか? というのがありました。(笑)」

電子機器に実装されるファンの流れのシミュレーション風景――何のためのシミュレーションか判らない。

 「最近は3次元のシミュレーションが高性能でバリバリ使えますが、何も考えずに3D CADのモデルをポンと入れたら解析できるのです。

 ところが、それをやると1つデメリットがあって、例えば構造とか、どこの流れの変化がその性能に影響しているかというのを見抜けないのです」

――なるほど。

 機械工学科 福江 高志 准教授 福江先生はお隣、富山県の富山工業高等専門学校を振り出しに東京農工大学工学部、富山県立大学大学院、オランダのデルフト工科大学、国立の岩手大学理工学部と内外の大学で研究生活を続けられ、2018年からKITに赴任された。ユニークな経歴と研究生活のいきさつを2回にわたって紹介したい。

――先生は富山工業高等専門学校のご出身で、国立の東京農工大学工学部機械工学科に進まれました。珍しい選択と思いますが何か特別な理由があったのですか?

 「実は鉄道好きが高じて機械工学を専攻しました。鉄道旅行が大好きなのです。さらに農工大はJR公益財団法人・鉄道総合技術研究所(鉄道総研)の近くにあるため、連携大学院を持っていたのです。そこを狙っていました。

 農工大工学部は小金井市、鉄道総研は国分寺市で隣り合っているのです。学生時代は鉄道総研近くのアパートに住み大学まで自転車で通っていました。関東平野は平らと思っていましたがあの辺りは意外と起伏が多いので足腰が鍛えられました(笑)。」

――農工大も鉄道総研も現役時代、何度も取材に行きましたが連携大学院があるとは初めて聞きました。かなり本格的は鉄道ファンですね。学部時代はどんな研究を?

 「共同研究なので詳しいことは言えないのですが、自動車用の冷却装置の効率化みたいなことを研究していました」

――機械と言っても純粋なメカニズムではないのですね。

 「実は富山高専時代も熱の研究をしていました。材料の中の熱の伝わり方、熱伝導をやっていました。数値シミュレーションをするのですが、いかに計算コストを下げられるかということをやっていました。

 パソコンレベルの計算機を使ってやるのです。例えば現象が激しくなる所だけに計算コストを割きましょうという方法、アダプティブ・メッシュ・リファインメント、AMRというのです。今ですと当たり前なのですが、当時は先駆けでした。

――高専時代から、それだけ専門化してしまうと大学に入ってから、一般教養などの単位を取るのは大変ではないですか?

 「おかげさまで農工大は編入を受け入れるのに比較的積極的な大学の一つで単位互換をかなり認められたので正直、楽でした。

 入ってからも一般教養でたまたま教育学を取ったのです。それから実は教育に興味を持ち出し始めました。その時の講師の方はご専門が小・中学校、初等教育の方でしてフリースクールの話を相当、議論したことが印象に残っています。

 要は学びの多様性、いろいろな個性を伸ばす仕組みを初等教育の段階から作っていく必要があるということです。フリースクールとかボランティアとか仕組みは何でもいいですが。それまであまり考えたことがなかったので面白かったです」

――それで目指した鉄道総研との連携大学院は?

機械工学科 杉本 康弘 教授 メガネやさんの店先でよく見かけた、レンズの超音波による洗浄サービス。あるいはファインバブルという泡の発生するシャワーヘッド。これらに共通するのは気泡、キャビテーション( cavitation )という現象の応用だ。杉本先生はこのキャビテーションに魅せられて研究を続けてこられた。

――杉本先生は前々回、ご登場いただいた機械工学科の藤本雅則先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2021/04/post-117.html )と同じ滋賀県のご出身ですね。
 
 「はい、しかも実家同士が車で10分くらいの所です。めちゃくちゃ近いです。藤本先生のことは学生時代から一つ学年が上で近くの研究室の人として存じ上げていましたが、お互い詳しく知ったのは私がKITに教員として入ってからです」

――それはまた、すごい偶然ですね。お二人は、高校は違いますが、同じ大学に入って、しかも同じ機械工学科。教員録でも一人挟んで並んでいます(笑)。先生は理系に進むきっかけは何かあったのですか?

 「それが、特にこれといったのがないのです。中学生の頃に、先生からお前は理系やなと言われたのはありますが。何かをきっかけにとか信念を持ってこれをやりたいと決めたことはほとんどありません。

 多分、数学や理科が得意だったからだと思います。勉強しなかったので英語や社会など覚えるものは成績が悪かったです」

――自然と理系に進まれたということですが、KITに来られたきっかけは"自然と"ではないですよね(笑)。

 「工学系の大学を幾つか検討していて、私立の中で一番良さげなところを選んだという感じです。

 良さげと言うのは金沢という街ですね。例えば福井と金沢だったら金沢を選びます。ものすごく田舎出身なので大阪と言うと大都会すぎてしまう。金沢だとちょうど良いと」

――でも、実際に来られたら隣の野々市市にあったのでちょっとがっかりしたのでは?

 「いや、それはなかったです。僕らが入学した頃は大学の募集要項の送り先は金沢南局止めになっていたのです。もちろん所在地は野々市市ですが、外から見ればほとんど金沢ですよね。大学の広報の方は工夫しているなと理解していました(笑)。」

――それで KITの機械科に入られて現在の流体エネルギー関連の研究に進まれたわけは?

 「大学3年の時の卒業研究の配属選びとか、工大祭の時に研究室巡りをして選びました。授業でも液体関連は分かりやすかったので興味が持てました」

――大学院では何を研究されたのですか?

機械工学科 藤本 雅則 准教授 偶然、このインタビューで前回の瀬戸雅弘先生に続いて機械工学科の先生が続くことになった。しかし、二人の先生方が機械工学に進んだきっかけは全く違う。また現在の研究領域もかなり離れている。特に藤本先生の研究は機械工学という名前からは素人が想像できない分野だ。期せずして機械工学という領域の広さ、多様性がわかる展開となった。

――先生は滋賀県立虎姫高校のご出身です。虎姫という高校名は珍しいですが、地名ですか?

 「そうです。虎姫町という地名です。長浜市の北側に隣接してます。虎姫高校は滋賀県北部の進学高という感じです」

――そこから石川県のKITに進学というと、何かきっかけがあったのですか? やはり高校の先生の推薦?

 「いいえ、違います。高校自体、大学の進路決定は生徒まかせで、みんな適当に勝手に決めなさいという感じでした。当時は今と違って情報源が豊富ではなかったです。その中でKITは大学案内のカタログというか紹介プログラムが充実していたので、そういうもので興味を持ったという記憶があります。インスピレーションで最初にパッと決めた感じですかね」

――理系志望は決まっていたのですか?

 「はい。父親が機械設備関係の仕事をしていまして、いろいろな資格を持っていました。その資格を取るためにもいいし、機械工学は一番つぶしが利くと常々聞かされていました。父の話にはなるほどと思いました。それは魅力的だと、機械をやろうと決めたのです」

――先生にとってKITの機械工学科はドンピシャの選択だったのですね?

 「ええ、私にとっては最高の選択です。高校生の時は進学校の中で勉強が出来る方ではなく、成績も上位ではなかったのです。KITに来たおかげで学問に目覚めたと思います。新谷一博先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2009/04/post-10.html#more )、佐藤恵一先生、矢嶋善次郎先生にも教えていただきました。おかげで研究の道に進むことができたと思います」

――それでKITでは何を専攻されたのですか?

 「最初からヒート、熱をやりました。熱工学です。具体的に言うと、イオン風をつかった凝縮促進というテーマでやったのです。イオン風というのは気体中で電場をかけるとイオンの流れができますが、イオンだけでなく中性粒子も加速されて流れになるのです。このイオン風を使って熱の移動を促進させようというものです」

――イオン風と言うと、私は小惑星探査機「はやぶさ」で有名になった宇宙ロケットの推進力に使うイオン・エンジンを思い浮かべますが?

 「あそこで使うイオンとはケタが違って。こちらのイオン風( ionic wind )は空気中の分子に電場をかけることで駆動して、一つの流れにするというもので、イオンとは言いながら実は原子、電子レベルの意味でイオン化はしていないのです。

 ちょっと判りにくいですが。いかんせん、こちらは消費電力が小さいので推進力はないのです」

――では具体的にどのように応用されるのですか?

機械から材料へ

カテゴリ:機械工学科
2021.03.04

機械工学科 瀬戸 雅宏 准教授 瀬戸先生は幼い頃から身の回りに農業機械があったため、典型的な機械いじり好きの若者に育った。それがKITに入り、恩師と出会ったことで機械工学から生産工学の道に大きく研究の進路を変更したという。詳しいいきさつを伺った。

――先生は金沢市立工業高のご出身ですが、工業高に進学するきっかけは何かあったのですか?

 「実家が農作業を行っていたため身の回りにトラクターからチェーンソーまで農業機械が転がってました。運転したり分解したりして遊んでいるうちに自然と機械が好きになり機械をもっと勉強したいなと」

――ご両親から、危ないと怒られたことはないのですか?

 「うちはどちらかと言うと奨励されてましたね。手伝いになりますから。雑草を取る時、草刈機で間違って足を切り救急車で運ばれたこともあります(笑)。それでも好きなことをやらしてくれた親には感謝してます」

――もっと勉強したくなってKIT に来られた。

 「はい、機械単体よりももっと広い目でシステムを見たいと機械工学ではなく機械システム工学科を選びました。機械の原理的なことは大体、高校で勉強したので。4年生の研究室で山部昌先生( http://www2.kanazawa-it.ac.jp/yamabe/researcher.html )を選び、博士後期終了まで一貫して山部研です。」

――山部研のどこに惹きつけられたのですか?まさか山部先生のフェアレディZに憧れたとか(笑)?

 「山部先生は日産自動車の第一線の研究現場からKITに来られました。先生から教えられたのは最先端のコンピューターシミュレーション技術でした。プラスチック製の自動車部品を作る時、溶けたプラスチックを型に流しこむ成形ですが、どこからどのくらいで入れていくかなどをコンピューターでシミュレーションして最適の方法を探るのです。

 そのようなことができるとは思っていなかったので目からウロコの衝撃でした。おそらく日本で初めてくらいの本格的コンピューターシミュレーションの大学研究室だったと思います。それで機械から生産工学に関心が移ったわけです」

――少し前の時代だと、そのようなシミュレーションはスーパーコンピューターの世界でしか実現できませんでした。

 「はい、それが大学にある普通のコンピューターでもできるようになっていました。ソフトウエアも今みたいに市販品のブラックボックスになっておらず、自分たちで自由にいじれました。ですから、どのようにソフトを使いこなしていくかが研究のテーマになりました」

――博士課程を終えてから、アルミメーカーの日本軽金属の技術センターに研究員として
入社されます。どのようなことを研究されたのですか?

 「はい、3年間お世話になりました。職種としては一応研究職でしたが、どちらかというと開発よりだったと思います。アルミの押出しや圧延などの塑性加工を担当しました」

――大学時代研究したプラスチックと金属のアルミでは同じ塑性加工と言ってもかなり特性が違うのでは?

 機械工学科 斉藤 博嗣 教授 テニスのラケットや釣りざおなどに使われているため、FRP(fiber-reinforced plastic,繊維強化プラスチック)はすっかり馴染みのある言葉となったが。しかし、どのような材料でどうやって作るかは、あまり知られていない。学生時代から実験を通じてそのFRPの奥深い魅力にとりつかれたという斉藤先生に研究の現状や課題をうかがった。

ーー先生は本学では珍しい京都工芸繊維大学のご出身です。京都工繊大の英語の表記はKyoto Institute of Technology で略称はKIT。本学と同じです。混乱しませんでしたか?

「ずいぶん昔のことなので、もう慣れました(笑)。」

ーー理系に進まれたのは何か理由がありました?

 「小さい頃から実験好きでした。"子供の科学"などの児童向け雑誌に載っていた実験に夢中になったのです。だから友達もみんな自然に理系に進むとものだと思っていました。そうしたら実際には2割しかいなくて。あれ?という感じでした(笑)。

 実験は今でも大好きで、学生にやってもらう実験も本当は自分がやりたいくらいです(笑)。」

ーー材料に進まれたのは?

 「学部3年の時に、授業でFRPというものに初めて触らせてもらいました。これは新しい材料でまだそんなに歴史がないという説明で興味を覚えたのです。

 私は破壊試験を担当しました。材料を作っては壊しみたいなことを続けます。金属だと、この部分にくびれが生じて亀裂が入って壊れると決まったプロセスで予想がつきます。ところがFRPはやってみると訳が分からなくて。それをどうやって解明するのかと迷いました。

 それが、なかなか奥が深いというか、分からないことだらけで、今でもよく分かりませんが、ただ、それをもうちょっとやってみようかなと思ったのが多分きっかけでしょうね」

ーー先生が最初に壊したFRPはどんな種類のものだったのですか?

 「今考えたら一番難しいのですけれど、ランダムにガラス繊維が入っているやつです。だから繊維の方向があちこちに向いているし、入っている場所もいろいろだし、無茶苦茶なのですよね。でも強くはなっている。プラスチックだとムニョーンと伸びるようなとこが、伸びないでブチッとちぎれる。しかもバリバリとね。

 今はガラス繊維ではなくほとんど炭素繊維を使っているのですが、当時は炭素繊維は高くて買えませんでした」

ーーそれで分からないという魅力に取りつかれたという感じですか?

機械工学科 田中 基嗣 教授 田中先生は、元々、機械工学科で複合材料の基礎研究をされていた。最近はそれに加えてバイオマテリアル、バイオメカニクスなど生体関連の研究もされているという。二つの異種領域にまたがる、最もイノベーションが期待できる分野の一つだ。

――先生は奈良県の進学校で有名な東大寺学園高校のご出身です。私はこちらの卒業生には初めてお会いした気がします。やはり東大寺の近所にあるのですか?

 「はい、元々は東大寺の南大門を入ってすぐ左側にあったのですけれど、狭くて不便なので、私が高校に行く頃は高の原という山の方の広い所を買って、そちらの方へ移っていました。

 東大寺が運営をしているというか、理事の方に僧侶がいらっしゃる。学校の運営には全く口出しはされないのです。スパルタ教育ではと思われる方がいらっしゃいますが、かなり緩いところです。当時は、雨が降ったら生徒の半分は登校しません(笑)。放っておいてもみんな勉強するので」

――京都大学の機械工学科に進まれますが、何かきっかけはあったのですか?

 「数学や物理は元々好きでした。中学生の頃、友達がテレビのF1中継を見はじめまして、それに影響されて自分も見始めて、面白いなと。時々、メカニックに日本人がいたりして。格好良いなと思い始め憧れました。」

――順調に大学院まで行けたのですか?

 「学部でそれなりの勉強はしたのですけれど、マージャンにも熱中してしまいました(笑)。5~6人の友人グループがあったのですが、マージャンは4人なので1~2人余るではないですか。ゲームで負けた人がレポートの課題をやり、残りの友人に教えるというルールにしたのです。必死で勝ちに行くのですが、負けたら仕方がないから一生懸命勉強して、みんなに教えられるようにしました。意外とマージャンも勉強も両方できたりして(笑)。」

実験設備をチェックする田中先生――修士ではどのような研究を?

 「学部4年で研究室に入った時に複合材料の研究をしているところに入りました。最初はセラミック繊維というものです。

 ジェットエンジンのブレードとか発電に使うタービンのブレードとかは、耐熱性のある金属を冷却システムを使って冷やしているのです。材料そのものに耐熱性がもっとあれば、もっと高温で使えて効率が上がるわけです。

 そうなるとセラミックぐらいしか候補がないのです。セラミックはお皿などと一緒でちょっと傷があれば割れてしまいますよね。ブレードが割れたら大変なことになります。けれど、それに繊維を入れることによって、亀裂が来ても繊維の方向に逃がすというか、一気に割れないようにする複合材料があったのです。」

――簡単に言うと高温にもショックにも強い材料ですか?

 「そうですね。そのような新しい材料が出てきたので、当時の恩師から"田中君、新しい材料をある会社がくれると言っているから、引っ張り試験をやってみないか"ということになりました。そんな材料は高温の炉などすごい設備がいるので研究室では作れません。企業との共同研究のおかげです。この研究は博士課程まで続きました。」

――京都大学の助手から07年KITにこられました。何か縁があったのですか?

機械工学科 畝田 道雄 教授 畝田先生はもともと研究者になるつもりはなかった。修士課程を修了したら就職し、技術者としての道を歩むつもりだったという。それが恩師の勧めで博士課程にまで進み、防衛庁に勤務した後で再びKITに戻って来られて2013年から教授に。今までの研究の一端をうかがった。

――先生は昔から機械いじりなどがお好きだったのですか?

 「いや、特にそのような理由がなくて。僕の記憶が間違ってなければ、当時のKITの募集パンフレットの一番上が機械工学科だったので、それで選んで(笑)。でも、ずっと、この道を歩んできたということは性に合っていたということでしょう。

 最初はドクターまで行こうという気はなくて、学部にいるうちに修士までは行こうかなと考えるようになりました。

 そのような中で修士2年になった頃、指導教授で学長だった石川憲一先生(現 名誉学長)から"ドクターに残ったらどうか"と言われました」

――よっぽど石川先生に見込まれたのですね。

 最後に決めたのはよく覚えているのですが、ドクターとして学生の立場でもありながら、任期付助手で残らせていただけることになりました。そうなれば自分で稼ぎながら研究できますから。

 見込まれたのか、使い勝手が良かったのか、それは分かりませんけれども、でもありがたかったです」

――博士課程の時はどのような研究をしたのですか?

 「"回転薄刃による硬脆材料の振動スライシング加工"。要するに硬くてもろい材料を精密に切断する研究です。薄い砥石(といし)を使って研削をしながら切断します。このテーマを恥ずかしながら学部4年の時に石川先生からいただいて6年間一貫してやってきたのです」

――振動スライシングというのはどのようなものですか?

 「刃を振動させることで、もっと能率良く精度良く硬い材料を切断しようとする加工法です。加工する材料はセラミックスとかガラスがメインでした。例えばセラミック材は耐熱材料ですから、耐熱性が要求される機械構造部材などに使ってもらえれば良いなという研究です」

「研究者になるつもりはなかった」と畝田先生――博士課程終了後に防衛庁技術研究本部に入庁されますが、この研究を伸ばしていこうという考えもあったのですか?

 「いや、全くないです。仕事と専門性とは関係ないと思っていたので。僕が防衛庁でやっていたのはレーダーの信号処理の研究をしていました。機械工学でもありません。

 防衛庁技官という立場で、普段の職務ももちろんありますが、格好良く言えば、将来の日本の防衛のために今後の防衛技術はいかにあるべきかを考えるのが技術研究本部なのです」

――と言うと、レーダーの勉強はゼロからご自分でやり直したのですか?

 

機械工学科 瀬川 明夫 准教授 専門家の先生方にインタビューしていると、時に思わぬ分野の言葉が別の意味で使われていることがあって驚くことがある。今回は英語の scale 一番馴染みのあるのはほとんど日本語化した「規模」や「物差し」の意味のスケールだろう。ところが瀬川先生の専門の金属加工では鉄の表面にできる薄い酸化膜のことも同じ scale と呼ぶのだそうだ。先生はそのスケールによる欠陥を取り除く研究をしてこられた。

――先生は機械いじりがお好きでこの道に入られたのですか?

 「まさにそんな感じです。小学校の時がちょうどスーパーカーブームで、ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリの名前を覚えました。
 
 また機械いじり関連では時期的にラジコンカーが流行り始めた時でもあります。プラモデルも好きでした。もともと車好きなので、さらに機械って面白いと」

――自動車を専門にするのではなく機械全般に興味を持たれた?

 「そうですね。車が好きだったけど、その車を作り出すモノ作り全般がとても面白く感じたんです。それで地元のKITに入って、さらに修士まで行きました。

 私はシステム設計工学専攻の第1期生でした。当初はいわゆる学際領域で、機械と電気の両方やる、その間を埋めるというものですかね。もともとは学部で機械工学を教えられていた先生の研究室が大学院ではシステム設計工学という、当時は名称だけ聞くと情報工学のようなイメージでした」

――モノ作りの中でも、特に何を研究されていたのですか?

 「塑性加工という分野です。要は粘土細工をイメージしていただければ結構です。モノ作りで一般の人がすぐ思い浮かべるのは機械加工ですね。要するに金属の塊から要らない部分を除去して形を作っていく。粘土細工はもともと塊がありまして、それを手でこねるなり、延ばすなりで、外から力を加えていって必要な形にしていく。これが塑性加工です。

 金属材料には2つの性質があります。1つはある程度の力を加えて変形させても力を除くと、また元の形に戻ってしまう性質です。ゴムのようなので弾性と言います。

 その弾性には限界がありまして、それを超えたところから、もう1つの性質の塑性という領域に入っていきます。要はある一定量の大きな変化を与えると形が変わったまま元に戻らないでいる性質です。ですから、やっていることは、ある意味では極めて単純で、外から力を加えて金属の形を変えるのです」

――その塑性加工の中では特にどんな分野を?

 「板や棒材、建築用のH型鋼と呼ばれている資材を効率的に作る圧延という加工を研究してきました。圧延は文字通り、材料に圧力をかけて延ばす加工です。しかも学生の時に行っていたのは、実際の金属を使うのではなくシミュレーションでした。代替材料を使ったり、コンピュータ上で加工を再現して条件を探るといったことです」

――代替材料というのは?

 「金属でなくても、もう少し柔らかくて、低い力で変形できる材料を使うのです。当時はプラスティシンという名前の粘土質の材料を使ったモデル実験をしていました」

――そんなもので金属の替わりになるのですか?

機械工学科 十河 憲夫(ソゴウ ノリオ)教授 先生の専門、機械工学の中での「燃焼」の研究は恥ずかしながら初めてうかがった。さんざん飛行機には乗ってきたが、ジェットエンジンの開発などにも燃焼の研究は重要だという。日常の便利さが地道な基礎研究に支えられていることを改めて痛感した。

----防衛大のご出身の先生は初めてです。香川県の高校から防衛大に進まれるきっかけは何かあったのですか?

 「子どもの頃は模型づくりに熱中して高校は理数系で、船か飛行機を作りたいと。飛行機のパイロットにもなりたかったのですが目が悪かったので、防衛大で機械をやることに。もともと、防衛大は理工系しかなかったのです。私より1、2年後に文科系ができました。理工系の中で何をやっているのかと言うと、一般のカリキュラムはKITとあまり変わらないです。ただ、プラスアルファがあって、銃器を扱って射撃したり、泳がされたりしました。要するにアメリカで言うとウエストポイントの士官学校ですから。自衛官になるための学校です」

----普通の大学生活とは違うのですね。その後、神戸大学に進まれたのは一般の大学でもっと勉強したくなられたのですか?

 「いいえ。防衛大学校を出ると自衛官に任官するのです。3等陸尉とか、昔の少尉さんに。その中で職域がいろいろ分かれるのです。私は技術職の研究開発の分野に入ったのです。そこから神戸大学に国内留学という形になりました」

----では、あくまで防衛庁の職員として行かれた?

 「そうです、そうです。ここKITでいう社会人過程と同じような感じで行かせて頂きました。」

----と言うことは、お給料をもらいながら勉強ができた? 最高ですね。その頃、学生運動はなかったのですか?

 「ありました。私が自衛官として神戸大学に入ったのが最初だったのです。自衛官を受け入れたのは他に大阪大学、東京工業大学など、あまり多くはないです。私は実家が四国の高松で近いところがないかと。ちょうど神戸大学におられた先生が引き受けても良いよと言われて。私が入ると教職員組合からクレームがついたりしました。でも博士課程まで終了して戻りました」

----神戸大ではどんな研究をされたのですか?

 「機械工学で燃焼とか伝熱を扱っている研究室でした。熱工学的な意味での燃焼で化学反応の細かいところまでは扱いません。

 でも当時の先端で、レーザーや光学計測で燃焼の場の流速や温度を測ったりする実験的な研究をさせていただいたのです。

 例えばジェットエンジンがあります。その燃焼室で、流動場、燃やして炎ができているか? 燃焼領域がきちんと確保できているか? その場では一番効率良く、なおかつ排気ガスを出さずにするにはどうしたら良いのかなどを実験的に調べるのです」

----今だと、スーパーコンピューターを使ってやれそうです。