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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

2019年08月 アーカイブ

情報工学科 黒瀬 浩 教授 黒瀬先生は国立群馬高専を卒業して、すぐにコンピュータ会社に就職された。以来、第一線でシステムエンジニアとして活躍しながら、大卒や博士の資格を取られた。移り変わりの激しいコンピュータ業界の歴史とご自身の歩みを振り返ってもらった。

――先生は群馬県のご出身なのですか?

 「いいえ、埼玉県の寄居というところです。国立の高専が埼玉県になかったので、中学を卒業して群馬県に行き、高専に入学し卒業してすぐに働いてしまったのです。ですから大学とか大学院に行ったのは随分後なのです。寄居から高崎に通うのは大変なので寮に入りました。高専はみんな寮が付いているのです」

――では寮でひたすら勉強できた。

 「今、国立高専は進学校になってしまった。東大や東工大に行く裏ルートではないですけれど、高校に進学するより高専に行って編入する方が楽だという。

 私の頃はそこまで進学校ではなかったから、クラスのうち10%くらいが長岡技科大か豊橋技科大に行くような、そんな時代。高専から行くための大学として、この2大学ができて、割と文部省が推薦したのです。

 でも、景気が良かったので学生1人に対して求人は20社以上来ていましたから、就職は簡単に決まりました。行ったらぜひウチに来てくれと、それで終わり」
 
――入社された日本データ・ゼネラルはどのような会社ですか?

 「もうないです。というか、名前が変わってしまいました。かつてミニコンピュータという産業があったのです。データ・ゼネラルは最初IBMに買われ、次にオムロンに買われて、今は三菱化学か何かの傘下の会社で、一時期社員が2000人近くいたのですが、今は300人くらいではないでしょうか」

*注 1960年代初め、コンピュータとは大型のメインフレームのことだった。大企業や官庁しか維持できなかった、これに対し60年代後半から、大学の研究室や中企業でも維持管理できる小型高性能コンピュータが出てきて、これをミニコンピュータ(ミニコン)と呼んだ。次第に高性能になりパソコンやインターネットがでてくる源流となった。

――会社では何を担当されたのですか?

 「システムエンジニア、SEです。人手不足ですから半年ぐらい研修して、すぐに現場に出されたとか、お客のところに行って打ち合わせして、そこで納める製品を決めて来い、みたいな感じです。

 ですから社内講習会とか結構多かったです。アメリカに行って研修を受けてきた人が講習会をやるとか。海外出張も多かったです。私はあまり行かなかったですけれど」

――その頃のSEは具体的にどんな感じのお仕事ですか?

 「今はソリューションとか言っていますよね。お客様に最適なものを作る、そういう時代ではなかったですから。逆に作り手の論理が優先する、いわゆるプロダクトアウトの時代です。会社が作ったものを紹介して、それを使ってもらうという感じです。IBMも富士通もみんなそういう売り方をしていました」

――ずいぶんと時代が変わりました。