「ゲストリサーチャーという立場でして基本的には"お客様"です。
私が所属していたのはインダストリアル・デザイン・エンジニアリングという学部です。つまりデザインを専門にしているところなので、コンピューターを使った大規模な解析とかタービンそのものを持ってきて実験してみるとか日本の工学系のような設備はないのです。
その代わりデルフトでは建築の梁なら梁の部分だけを丹念にシミュレーションしていたのです。全体ではなくて。私からすると、なぜそんな部分だけを、計算でも分かるようなことをやるのだろうと、すごく思ったのです。当時の私は大規模解析が大好きな人間でしたので。
今、振り返ってみると、デルフトの研究室でやっていたのは、大事なところだけをしっかりパラメータ化して、設計の勘所をちゃんと押さえて応用しましょうということだったのだと。やはりデルフトは凄いと」
――コンピューターによる解析、設計が進み過ぎて最初から頼り過ぎてしまっている。設計の原点に返ろうということでしょうか?
「そうです。ちょっと前、7~8年前ですかね。いわゆるコンピューター・シミュレーションが設計現場に一挙に普及したときがあって、その時は関連する大学の研究室はコンピューター・シミュレーションのお悩み相談室みたいになってしまったのです。
典型的なのは、シミュレーションでこんな結果がでたけど正しいですか? というのがありました。(笑)」
――何のためのシミュレーションか判らない。
「最近は3次元のシミュレーションが高性能でバリバリ使えますが、何も考えずに3D CADのモデルをポンと入れたら解析できるのです。
ところが、それをやると1つデメリットがあって、例えば構造とか、どこの流れの変化がその性能に影響しているかというのを見抜けないのです」
――なるほど。
そこを正そうというのが1DCAEという考え方です。日本機械学会が中心となって、いわゆる物事の本質、現象の本質というところをしっかり製品の中で考えた上で、その肝の部分をちゃんと理解して設計しようという取り組みをしていて、私もその手伝いをしているのです。
"1D"は特に1次元を意味しているのではなく、物事の本質を的確に捉えて理解して設計しましょうということだそうです。"CAE"も単なるシミュレーションだけではなく、本来のComputer-Aided Engineeringを意味しているのです」
生体模倣技術も
――デルフトの後、今度はまた日本に戻って国立の岩手大学理工学部システム創成工学科機械科学コース助教になられます。
「そもそも岩手大の教員公募があるとの情報があったのでデルフトの滞在を半年で切り上げなければならなかったのです。
岩手では廣瀬宏一先生の下で助教をしたのですが、廣瀬先生のご専門はどちらかというと基礎研究でした。私はあまり基礎研究という土壌では研究経験がなかったのです。その時の廣瀬先生のご専門の1つが"共存対流"というものでした。」
――共存対流は初めて聞きました。
「例えば、扇風機で風を起こします。その流れの中に石油ストーブを置きます。ストーブで熱せられた空気は上に上がっていく。この流れは自然対流と呼ばれるものです。扇風機の風が強ければ自然対流による影響はかき消されるのですが、弱いと自然対流と扇風機の風が混ざった流れになるのです。扇風機からの力と、熱によって密度が軽くなって浮き上がっていく浮力の効果と、それが混合した複雑な流れになるのです。廣瀬先生はこの共存対流の専門家なのです。
その先生の下で研究させていただくので、何か私のモチベーションになる研究はないかと思いついたのが血液の流れなのです」
――血液とは意外です。
「何故かというと、血液は心臓がドックン、ドックンと脈動して流れます。流れたり止まったりの現象はまさに共存対流のような複雑な流れになるのです。
その他、魚の泳ぎ方など自然の構造にヒントを得た生体模倣工学(バイオミメティクス)も私の研究室のテーマの1つになっています」
――縁あって2018年からKITに来られたわけです。お話が面白くてあちこち飛んでしまいましたが先生の元々のご専門は何と言えば良いのですか?
「実は私の本来の専門は電子機器の冷却設計なのです。誰もが経験しているようにパソコンは使っていると熱を帯びてきます。主な原因は半導体が電熱ヒーターと同じ電気抵抗に基づいて発熱するジュール熱というものです。
しかし、他にも要因があって、その一つは電流がリークしてしまうのです。今、半導体の回路幅はめちゃくちゃ細くなってナノまで行ってしまっています。そのナノ幅の回路から結構膨大な電流が流れてしまうのです。熱の量としてはたいしたことないのですが、密度が濃いので、一瞬そこだけ200~300℃になったりします。
そうすると、そこに熱応力が発生してクラックが入り、半導体が壊れるのです。CPUの場合もありますし、最近、問題になっているのは大電力を扱うパワー半導体です」
――パワー半導体は世界中で開発競争が激化している電気自動車(EV)の中でも重要な位置を占めています。
「半導体自身を上手く熱を出さないように設計する、あるいは出てしまった熱を上手く冷やす。この2刀流の方向で行かなくてはなりません。しかもコストは下げなければならない。
この時に、先ほどデルフト工科大でも紹介した1DCAEが出てくるのです。つまりコストを下げるために本質を理解しましょうということになるのです」
福江先生は鉄道ファンに始まり乗り物一般、民族舞踊、さまざまなお茶を飲むことなど
今でも多彩な趣味を持っているという。多方面な好奇心、研究心から思わぬイノベーションが生まれることを期待したい。
――先生は富山工業高等専門学校のご出身で、国立の東京農工大学工学部機械工学科に進まれました。珍しい選択と思いますが何か特別な理由があったのですか?
「実は鉄道好きが高じて機械工学を専攻しました。鉄道旅行が大好きなのです。さらに農工大はJR公益財団法人・鉄道総合技術研究所(鉄道総研)の近くにあるため、連携大学院を持っていたのです。そこを狙っていました。
農工大工学部は小金井市、鉄道総研は国分寺市で隣り合っているのです。学生時代は鉄道総研近くのアパートに住み大学まで自転車で通っていました。関東平野は平らと思っていましたがあの辺りは意外と起伏が多いので足腰が鍛えられました(笑)。」
――農工大も鉄道総研も現役時代、何度も取材に行きましたが連携大学院があるとは初めて聞きました。かなり本格的は鉄道ファンですね。学部時代はどんな研究を?
「共同研究なので詳しいことは言えないのですが、自動車用の冷却装置の効率化みたいなことを研究していました」
――機械と言っても純粋なメカニズムではないのですね。
「実は富山高専時代も熱の研究をしていました。材料の中の熱の伝わり方、熱伝導をやっていました。数値シミュレーションをするのですが、いかに計算コストを下げられるかということをやっていました。
パソコンレベルの計算機を使ってやるのです。例えば現象が激しくなる所だけに計算コストを割きましょうという方法、アダプティブ・メッシュ・リファインメント、AMRというのです。今ですと当たり前なのですが、当時は先駆けでした。
――高専時代から、それだけ専門化してしまうと大学に入ってから、一般教養などの単位を取るのは大変ではないですか?
「おかげさまで農工大は編入を受け入れるのに比較的積極的な大学の一つで単位互換をかなり認められたので正直、楽でした。
入ってからも一般教養でたまたま教育学を取ったのです。それから実は教育に興味を持ち出し始めました。その時の講師の方はご専門が小・中学校、初等教育の方でしてフリースクールの話を相当、議論したことが印象に残っています。
要は学びの多様性、いろいろな個性を伸ばす仕組みを初等教育の段階から作っていく必要があるということです。フリースクールとかボランティアとか仕組みは何でもいいですが。それまであまり考えたことがなかったので面白かったです」
――それで目指した鉄道総研との連携大学院は?
留年は人生初めてでしたし、単位を落としたのも初めてで結構ショックでした。その時お世話になった先生方といろいろ話をして、"失敗したところで人生最後の最後で笑えれば良いのだから、お前は気に病みすぎる"と言われて開き直ることができました」
――それでもう1度挑戦した?
「はい、気をとり直して。さすがに2回目やってダメだったら諦めようと。鉄道には縁が無かったと。それで第1志望は鉄道、第2志望は伝熱にしようと。高専時代に伝熱はやっていましたし、農工大には著名な先生もいらっしゃることも知っていました。ただ、その研究室は当時、学生の人気があまりなくて。理由は学生の指導が厳しいので有名だったのです(笑)。第2なら絶対入れると思いました。
それで、第1はクジを見事に外しまして、第2の伝熱に進むことになったのです」
「家庭の事情で戻った方が良いかなと思ったのですが、農工大で指導を受けた望月先生と、大学院の師匠の富山県立大学の石塚先生が、熱流体の国際会議を一緒に主催しているなど以前から共同研究しているかたちで、望月先生からも教えてもらいました。
石塚先生からは"お前は所属が変わり過ぎて何が専門か分らないからドクターに残って1本柱を作れ"と言われました。それで博士前期・後期の計5年間いました。略歴的には富山県立大学大学院工学研究科機械システム工学専攻博士後期課程修了となります」
デルフト工科大へ
――そこから急にオランダのデルフトに行かれる?
「たまたまなのですが富山県立大学とデルフト工科大学との間でいわゆる連携協定を結ぼうということになっていたらしいのです。その時、私はちょうど日本学術振興会の特別研究員となっていたのでポスドクとしてデルフトに行ってくれという話になったのです。
デルフト工科大学は日本ではあまり知られていませんが、ノーベル賞受賞者を3人も出しているヨーロッパで有数の工科大学です」
――随分と恵まれていますね。運が良いというか。デルフトはどこにあるのですか?
「オランダの首都ハーグと大都市ロッテルダムとのちょうど真ん中にあります。"真珠の耳飾りの少女"で有名な画家のフェルメールが生まれてから死ぬまで過ごした街です。
フェルメールの生家は博物館になっていて、じっくり見てきました。
デルフトの街は本当に田舎なのですが、デルフト工科大があるので学生街にもなっていて、いわゆる日常生活は全然苦労しないで済みました。オランダの雰囲気を満喫できる良い街です」
――それは羨ましいですね。何年いらしたのですか?
「結局、半年です。短くてもったいなかったですね」
――デルフトでは何語を使われたのですか?
「オランダはデルフトもハーグもアムステルダムもそうなのですが、ほとんど英語で済んでしまうのです。基本的にオランダ人はバイリンガルなので。その点ありがたかったです。
ただ1つだけショックだったのはマクドナルドでビッグマックを買おうとした時に私の"ビッグマック"が通じないのです。店員さんに"I can't understand your English"と言われてしまいました笑。
*続く*
――杉本先生は前々回、ご登場いただいた機械工学科の藤本雅則先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2021/04/post-117.html )と同じ滋賀県のご出身ですね。
「はい、しかも実家同士が車で10分くらいの所です。めちゃくちゃ近いです。藤本先生のことは学生時代から一つ学年が上で近くの研究室の人として存じ上げていましたが、お互い詳しく知ったのは私がKITに教員として入ってからです」
――それはまた、すごい偶然ですね。お二人は、高校は違いますが、同じ大学に入って、しかも同じ機械工学科。教員録でも一人挟んで並んでいます(笑)。先生は理系に進むきっかけは何かあったのですか?
「それが、特にこれといったのがないのです。中学生の頃に、先生からお前は理系やなと言われたのはありますが。何かをきっかけにとか信念を持ってこれをやりたいと決めたことはほとんどありません。
多分、数学や理科が得意だったからだと思います。勉強しなかったので英語や社会など覚えるものは成績が悪かったです」
――自然と理系に進まれたということですが、KITに来られたきっかけは"自然と"ではないですよね(笑)。
「工学系の大学を幾つか検討していて、私立の中で一番良さげなところを選んだという感じです。
良さげと言うのは金沢という街ですね。例えば福井と金沢だったら金沢を選びます。ものすごく田舎出身なので大阪と言うと大都会すぎてしまう。金沢だとちょうど良いと」
――でも、実際に来られたら隣の野々市市にあったのでちょっとがっかりしたのでは?
「いや、それはなかったです。僕らが入学した頃は大学の募集要項の送り先は金沢南局止めになっていたのです。もちろん所在地は野々市市ですが、外から見ればほとんど金沢ですよね。大学の広報の方は工夫しているなと理解していました(笑)。」
――それで KITの機械科に入られて現在の流体エネルギー関連の研究に進まれたわけは?
「大学3年の時の卒業研究の配属選びとか、工大祭の時に研究室巡りをして選びました。授業でも液体関連は分かりやすかったので興味が持てました」
――大学院では何を研究されたのですか?
]]> 「キャビテーションと言って、気泡ですね。もっと簡単に言うと泡の研究です。水に熱を加えていくと沸騰という、泡ができる現象が出てきます。これは地上付近で100度で飽和蒸気圧に達したからですが、富士山の頂上のように気圧が低いとこではもっと低い温度で沸騰します。
一方、流体を加速すると圧力が下がって低い温度で沸点を超えてしまう現象が起きるのです。昔から問題になっていて、よく知られているのが船のプロペラです。プロペラは速く水中で回転します。そうするとプロペラの後ろ側で圧力が下がって、そこで水蒸気の泡ができます。
これが厄介なのは、圧力が普通に戻るとまた水に戻ります。それが一瞬、本当に0.1ミリ秒くらいのオーダーです。そうするとプロペラは金属など固い材料でできていますが、その時の泡が潰れる衝撃でダメージを受けてしまうことがあるのです。
そのため今のプロペラは、キャビテーションが起きにくい設計になっています」
――そう言えば、10年前にインタビューした佐藤隆一先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2012/04/ )は、防衛省の研究所で潜水艦のプロペラのキャビテーションの研究をされていました。杉本先生の研究室のホームページにはキーワードとして「キャビテーション」、「マイクロバブル」、「ウォータージェット」が挙げられています。
「そもそも泡から始まって今は混相流という現象を研究しています。相というのは気相、固相、気相で、それが混ざって流れているということです。
マイクロバブルは文字通り小さな泡ですし、ウォータージェットの場合は水を空気中に吹きます。空気と水の2相が混じった混相という同じ概念でくくれるというわけです」
「科研費をもらってやっているのがレーザーで結石を壊す研究です。結石は尿管や腎臓にしゅう酸カルシウムなどが結晶化して詰まらせるもので大変痛いことで知られています。
内視鏡を入れてお医者さんが確認しながら、そこに光ファイバーを通じてレーザーをバンバンと打って結石を壊していくというものです。
レーザーというのは熱源なので、それが一瞬にして体内の水に吸収されて一瞬で沸騰するのです。沸騰して泡ができますが、その泡がまた周囲に熱を奪われてすぐに水に戻るのです。その時、前に話したキャビテーションと同じことが起きるので、結石が破壊されるのです。
もちろん、レーザーが直接、結石に当たるということで石を壊すということもあります。医学界ではここ10年くらい前まではほとんどそう思われてきました。そうではなくて泡が重要な役割を果たしていることが次第に明らかになってきているのです」
――そのような人体内で起きていることをどうやって調べるのですか?
「お医者さんは内視鏡で見ているわけですが、泡の出現、消滅は0.1ミリ秒のオーダーなので確認することはできません。
しかし、実験室で実際に使うファイバー形レーザーを使い、高速度のビデオ映像で気泡による破壊実験を見せてあげると、お医者さんは頭が良いですから納得していただけます。
実際の治療を多く経験されたお医者さんは模擬実験の映像やデータを見るだけで、"ここまで照射すると危ないな"など大体のイメージがつかめるようです。我々としてはレーザーの照射範囲や頻度など、狭いところなのでこれ以上打つと危険ですよという範囲を提案できればいいなと思っています」
最近の工大生はお利口さん?
――先生はKIT出身ですが、ご自身の学生時代と比べて最近の学生はどうですか?
「学生が元気なのがうちの大学の特徴だったのですが、最近はちょっと良い意味でお利口さんですよ。本当にお利口さんなのか、腹黒い(?)お利口さんなのか分かりませんが。KITだけでなくて今の大学生全般の傾向なのかも知れません」
これを書いている2022年1月に日本から約8000k離れた南太平洋のトンガ島で海底火山の大規模噴火が起きた。これに伴う空気の衝撃波により津波のような海面の異常潮位の波が起き日本の海岸にも被害を与えた。非常に珍しい現象だという。スケールは全く違うが液体と気体が関わる思わぬ物理現象はまだまだ解明されていないことはありそうだ。杉本先生のミクロのスケールの研究でもこれから何が生まれるか分からない。
]]>――田中先生はどうして理系に進まれたのですか?
「中学生の頃なのでよく覚えていないのです。結構数学が得意で、逆に国語が苦手でした。高校は富山県の高岡高校でしたが、自然と高校の理数科コースに入り、クラス全員が理系でした。
高校の時は、おしゃれで格好がいいし夢があるから建築家になろうと思っていました。ところが東大に受かっても建築学科に進むのはとても難しい。当時は安藤 忠雄さんという有名な建築家が教授でいらして大変人気があったのです。そこでやむなく土木に」
――そうですか。高校入学前の中学生の時にすでに理系か文系か選ばされるというのは相当早いですね。東大に入られても建築学科は難しかった。今でも同じ状況なのですかね。
「聞くところによると、今は建築の人気は下火で土木の方が人気とのことです。また、今の学生たちは、国際機関や海外ファンド系の金融機関、ディベロッパーなどが就職先として人気があります。今の学生さんは何かそういう国際貢献とか人のためみたいなことに興味があるみたいです」
――でも、先生は土木に興味を持たれ、大学院まで進まれて研究者の道へ。大学院ではどのようなことを研究されたのですか?
「僕はコンクリート構造が専門なので、耐震構造とか耐震部材の研究をしてました。コンクリートは使っているとどうしてもヒビが入る。このヒビを制御して粘り強い構造ができないかという研究です」
――2004年には新潟県にある長岡技術科学大学の助手に。
「故郷が富山県なので新潟であれば隣県で近くて良いなと思い、公募にチャレンジしました。長岡技科大は1976年に設立された新しい大学で丘陵地にありキャンパスがまとまっていて隣に職員宿舎があり本当に徒歩2分で通えました。
長岡に移ってからは構造物の老朽化の研究をやりました。新潟とか北陸は冬が厳しい環境なので関東とかと比べると建物の劣化が早く進むのです」
――いったん、東大に戻られた後、2018年からKITにこられました。何かご縁があったのですか?
「こちらの宮里心一先生から声をかけていただいて応募させていただきました。宮里先生とは私が学生の時から同じ学会で、20年前からのお付き合いになります。
同じ学会なので分野はすごく近いのですけれども、宮里先生はコンクリートの材料自身を研究されています。私はそれを使った構造体、その強度とかいった研究を専門にしているので、"コンクリート業界"の中では結構両極端で、一応住み分けはできています。おかげさまでKITの本学科は土木学会の中ではかなり有名になっていると思います(笑)」
――その構造体の中で、先生が特に力を入れているのは?
]]> 「道路橋床板(しょうばん)ですね。見ての通り、コンクリートで出来ている道路の床ですので、トラックなど大型車両のタイヤが直接載ります。それが激しい所だと1日何万台と通りますので、やはり痛みが激しいのです。この痛み具合を今は人間が上から目で見たり、叩いたりしてチェックしているのです。しかし、これでは内部がどのくらい傷んでいるのかということは全然分かりません。それでレーダーを使ったり、いろいろな非破壊検査機器を使ったりとか、あと写真を基にAIに判定させるといった研究をしています」
「内部のヒビを見つけるのが一番難しいです。小さく、しかも外から見えません。鉄筋の位置だったらレーダーなどで見えるのですが、中のヒビを直接、見るという方法はなかなか開発が難しくてネックになっています」
――ヒビがもし発見された時はどうやって補修するのですか?
「基本的には今は取替えです。昔、どうやって補修するかというのを頑張って研究した時代が20年間ぐらいあったのですが、もう何をやっても無理だというのが分かってきました」
――話は横にそれますが、2007年アメリカ・ミネアポリスで高速道路の橋が崩落するという大事故があり、つい、最近(2021年6月)ではフロリダでマンションが崩落して多くの犠牲者が出ました。アメリカはこうした事故は起きやすいのですか?
「フロリダは建築で専門外なので詳しいことは分かりません。建築が40年くらいで崩壊するというのは普通では考えられないです。ただ、リゾート地にあったので塩害の被害を受けていたという報道もあり、そうすると北陸地方でも気をつけなければなりません。
ミネアポリスの高速道路崩落事故は、橋が鉄骨造で、補修・補強工事に問題があったと聞いています。
ただ米国はなんだかんだ言ってもインフラの老朽化対策は結構進んでいるのです。ちゃんと予算をつけ、補修方法の研究開発も行われています」
――ヨーロッパはどうですか? 米国より古いインフラが多そうですが、インフラ崩壊事故はあまり聞かない気がします。
「それが結構起きているのです。2年くらい前にイタリア・ジェノヴァで斜張橋が壊れて何十人か亡くなっています。特にイタリアは多いです。火山国ですし塩害もあるしで日本と似ています。経済的にもドイツやフランスに比べると弱いので、お金がなくてメンテナンスに苦労していると聞きます」
COIにも参加
――先生は2018年にKITに来られて、こちらで新たに展開されている研究はありますか?
「KITの中でいろいろなプロジェクトがあるので、それに参加しています。その一つがFRPの研究。本学のCOI( Center of Innovation, https://www.icc-kit.jp/coi/organization/index.html )で安価なFRPを作っているのですけれども、それを土木建造物の中に使って永久に錆びない、永久に劣化しない構造物を作ろうというものです。
具体的に言うと、洋上風力発電の構造体をFRPとコンクリートのハイブリッドで作る、これを日本の海に浮かべて2040年までに火力発電所30基分の電力を作ろうという計画です。これには学生も参加しています」
橋やトンネルなど老朽化のため起きる事故はこれから増える一方だ。事故の度に大きく報道されるが、現場の管理者や田中先生たちのような研究者の地道な努力は報道される機会が少ない。ネットなども活用しもっと伝えるべきだろう。
]]>――いきなりで失礼ですが、大変お若く見えますが年齢は30代ですか?
「2020年でちょうど40歳になりました。童顔というのかKITに来た頃は職員の方に学生と間違われて、そのような対応をされました(笑)。今はだいぶ、顔が知られてきて教員として認知されるようになりました」
――先生は地元石川県の小松高校から神戸大学に進まれました。あまり聞かないケースですね?
「小松高校からだと、進学する大学は金沢、関西、東京方面と3分されます。関西は決して珍しくありませんが、神戸大は学年で1人か2人なので珍しいかも。いろいろな経緯で神戸大に進学することになりました。元々、横浜とか神戸とか大都市の横にある港町が好きだったので、良い所そうだと」
――高校の頃からコンピュータ関連を目指していたのですか?
「学部は電気電子工学科でしたので、あまり情報関連へ行こうとは思っていなかったですね。大きな声では言えないのですが(笑)、高校から学部2年ぐらいまではヒマがあればゲームをしていたゲーム少年だったと思います。ロールプレイングとか野球系ですね。小学生時代にファミコンが家にあったので、それがゲームにはまっていったきっかけです」
――となるとパソコンに触ったのはもっと後になりますね。
「中学に技術の授業で、初歩的なゲームを作るプログラミングのようなことで触る機会はありましたが、本格的になるのは神戸大に入って電気電子学科ですけれどもプログラミングの授業があったので、それが最初です。言語はC言語で、分からないなりにやっていたというのを覚えてます」
――電気電子工学科ではどんなことを勉強されたのですか?
「電気回路、電子回路、半導体などいわゆる電気電子の一般ですね。あとアーキテクチャ基礎といったコンピュータ関連の科目もあったので、それらも履修していました。情報工学のネットワーク系とかは、学部の時はやっていなかったので本当に独学でやってきた感じですが、それ以外のハードウェア面の知識もあるので有利に働いているのではと思っています」
――学部の卒論はどんなテーマだったのですか?
「分野で言うと、人工知能に近いのですが、論理数学の2つの形式を変換することでした。かなり理論系の分野になると思います」
――それはちょっと聞いただけで難しそうですね。さらに詳しく伺ってもさらに理解できそうにありません(笑)。博士課程では一段と難しいことを研究されたのですか?
]]> 「それが、学部の卒論の指導教官が東京の研究所に移られて、大学院から別の先生になられたのです。それで研究内容がガラッと変わったのです。人工知能の理論系から一挙にウエアラブル、ユビキタスといった、センサーを使って生活を良くして行こうという方向です。大学からは、このまま大学に残って東京に行った先生から指導を受けるか、新しい先生から指導を受けるかどちらにするかと聞かれたのですが、やはり先生の側にいてダイレクトに指導を受けたいと研究の方向転換をしたのです」
「ユビキタスコンピューティング( https://www.nic.ad.jp/ja/basics/terms/ubiquitous.html )です。元々は1991年に米国のゼロックス研究所のマーク・ワイザー氏が提唱した概念で、ユビキタス(ubiquitous)はラテン語で「遍在する。あまねく存在する」といった意味です。
さまざまなセンサー類と極小のマイクロ・コンピュータ(マイコン)が人間のありとあらゆる環境に存在するようになる。僕たちが意識しなくても恩恵をうけられるようになると。これは恩師がよく使っている例で、僕のオリジナルではないのですが、例えばトイレに行くとします。トイレに入るだけでライトがつきます。用をたすと、何もしないで水が流れます。蛇口に手を近づければ、自動的に水が出てきて、引っ込めれば止まります。これはかなりあちこちで見られる光景です。
いろいろなセンサー、マイコンが働いているのですが、これが普通になってくると我々は意識しなくなってくる。まさにユビキタスな環境です」
――なるほど、スマホは紛れもないコンピュータだけど、コンピュータだと意識して使っている人は少ない。しかも小学生からお年寄りまで偏在している。まさにユビキタスが実現してしまった。となると、スマホの次に来るものは何かが問題です。何が来ると思われますか?
「これも恩師の受け売りですが、コンピュータがスマホより小さくなると、もはや手では扱えなくなる。それで人が身につけるとか、メガネのようにつけるヘッドマウンティン・ディスプレイなどが考えられます。しかし、学生時代にウエアラブルの普及だと同期の仲間といろいろ試しましたけど、ウォークマンやスマホのようにパッと広がって一世風靡するというのとはほど遠い。何が来るかは一番難しい問題なのでやりがいがあると思ってます」
――先生の研究紹介に載っている「サービス・サイエンス」というのは何ですか?
「KITに来る前に公立はこだて未来大学に研究員としていました。そこでやっていたのが公共交通システムでバスとタクシーの間のようなものです。乗り合いタクシーやデマンドバスに近いものです。乗りたい場所、降りたい場所をスマホで指定すると、サーバー側でどの車両を向かわせるか決めて、来てくれるシステムです。
これは一例ですが、サービス・サイエンスの考えはもっと広くて文系、理系を超えた学際的なもので理論的、体系的にまとめていく研究が行われています」
「5年後、10年後の人とコンピュータの関係を意識して研究したい」という佐野先生の研究室から何が生まれてくるか楽しみだ。
]]>――先生は滋賀県立虎姫高校のご出身です。虎姫という高校名は珍しいですが、地名ですか?
「そうです。虎姫町という地名です。長浜市の北側に隣接してます。虎姫高校は滋賀県北部の進学高という感じです」
――そこから石川県のKITに進学というと、何かきっかけがあったのですか? やはり高校の先生の推薦?
「いいえ、違います。高校自体、大学の進路決定は生徒まかせで、みんな適当に勝手に決めなさいという感じでした。当時は今と違って情報源が豊富ではなかったです。その中でKITは大学案内のカタログというか紹介プログラムが充実していたので、そういうもので興味を持ったという記憶があります。インスピレーションで最初にパッと決めた感じですかね」
――理系志望は決まっていたのですか?
「はい。父親が機械設備関係の仕事をしていまして、いろいろな資格を持っていました。その資格を取るためにもいいし、機械工学は一番つぶしが利くと常々聞かされていました。父の話にはなるほどと思いました。それは魅力的だと、機械をやろうと決めたのです」
――先生にとってKITの機械工学科はドンピシャの選択だったのですね?
「ええ、私にとっては最高の選択です。高校生の時は進学校の中で勉強が出来る方ではなく、成績も上位ではなかったのです。KITに来たおかげで学問に目覚めたと思います。新谷一博先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2009/04/post-10.html#more )、佐藤恵一先生、矢嶋善次郎先生にも教えていただきました。おかげで研究の道に進むことができたと思います」
――それでKITでは何を専攻されたのですか?
「最初からヒート、熱をやりました。熱工学です。具体的に言うと、イオン風をつかった凝縮促進というテーマでやったのです。イオン風というのは気体中で電場をかけるとイオンの流れができますが、イオンだけでなく中性粒子も加速されて流れになるのです。このイオン風を使って熱の移動を促進させようというものです」
――イオン風と言うと、私は小惑星探査機「はやぶさ」で有名になった宇宙ロケットの推進力に使うイオン・エンジンを思い浮かべますが?
「あそこで使うイオンとはケタが違って。こちらのイオン風( ionic wind )は空気中の分子に電場をかけることで駆動して、一つの流れにするというもので、イオンとは言いながら実は原子、電子レベルの意味でイオン化はしていないのです。
ちょっと判りにくいですが。いかんせん、こちらは消費電力が小さいので推進力はないのです」
――では具体的にどのように応用されるのですか?
]]> 「例えば火力発電に使うボイラーがありますね。タービンを回すために高温、高圧の水蒸気を作ります。通常は発電に使った水蒸気はそのまま廃棄してしまうのですが、これをイオン風などの利用によって熱を効率良く回収することができます。また熱交換器としても十分可能と考えています」――そうなると、電気電子工学もかなり勉強する必要がありますね。
「そうです。私が研究室に入って最初にやったのは、高電圧電源を自作したことです(笑)。今でこそ、手頃な大きさのものを十数万円ぐらいで買えるのですが、当時はなくて、あっても非常に高価で、我々の研究費で買える代物ではありませんでした。それで仕方がなく回路を考えトランスを組み合わせて作ったのです。100Vの交流を入れて30kVTの直流を作り出しました」
――博士課程を出られてから、大阪にあるクボタに入社されます。クボタは農機具のメーカーだと思っていました。
「そうなのですが、実はクボタはトラクターといった機械分野の他に環境系の水処理分野もあるのです。当然、私は水処理分野に配属されました。研究職ではなく、普通の一般社員としての入社なので、いろいろなことを経験させてもらいました。もちろん現場で工事も体験しましたし、設計、研究、開発もしました」
――クボタに4年間おられて、エンジニアとしてこれからというときに、縁あってKITにこられました。現在はどのような研究を?
「はい、会社にようやく慣れたところだったので、正直迷いました。ただ、こちらに熱の専門家が少ないということなので、いろいろなことができるかなと。
今、進めている研究の一つは氷をできるだけ高い温度で凍らせる技術です。氷は温度が0℃になるとすぐにできるわけではありません。冷蔵庫などで冷やしていってもマイナス10℃以下になってもなかなか凍らない液体の状態が続くのです。そういうところに何かホコリのような核になるものを入れたり、ショックを与えてやると、それがきっかけで凍るのです。
我々はそのキッカケに電場を使って凍らせられないかといろいろ試しているのです。まだ試験管レベルですがマイナス5℃くらいまでできました。これがもっと0℃に近づけば氷を作る時に省エネになるわけです」
藤本先生の研究は新たにモノを作るというよりも、捨てられているエネルギーを回収し、再利用していこうという、どちらかというと地味な分野だ。しかしKITも全学をあげて推進しているSDGsの流れでは重要なポジションを占めていて、これからますます注目されそうだ。
]]>――先生は金沢市立工業高のご出身ですが、工業高に進学するきっかけは何かあったのですか?
「実家が農作業を行っていたため身の回りにトラクターからチェーンソーまで農業機械が転がってました。運転したり分解したりして遊んでいるうちに自然と機械が好きになり機械をもっと勉強したいなと」
――ご両親から、危ないと怒られたことはないのですか?
「うちはどちらかと言うと奨励されてましたね。手伝いになりますから。雑草を取る時、草刈機で間違って足を切り救急車で運ばれたこともあります(笑)。それでも好きなことをやらしてくれた親には感謝してます」
――もっと勉強したくなってKIT に来られた。
「はい、機械単体よりももっと広い目でシステムを見たいと機械工学ではなく機械システム工学科を選びました。機械の原理的なことは大体、高校で勉強したので。4年生の研究室で山部昌先生( http://www2.kanazawa-it.ac.jp/yamabe/researcher.html )を選び、博士後期終了まで一貫して山部研です。」
――山部研のどこに惹きつけられたのですか?まさか山部先生のフェアレディZに憧れたとか(笑)?
「山部先生は日産自動車の第一線の研究現場からKITに来られました。先生から教えられたのは最先端のコンピューターシミュレーション技術でした。プラスチック製の自動車部品を作る時、溶けたプラスチックを型に流しこむ成形ですが、どこからどのくらいで入れていくかなどをコンピューターでシミュレーションして最適の方法を探るのです。
そのようなことができるとは思っていなかったので目からウロコの衝撃でした。おそらく日本で初めてくらいの本格的コンピューターシミュレーションの大学研究室だったと思います。それで機械から生産工学に関心が移ったわけです」
――少し前の時代だと、そのようなシミュレーションはスーパーコンピューターの世界でしか実現できませんでした。
「はい、それが大学にある普通のコンピューターでもできるようになっていました。ソフトウエアも今みたいに市販品のブラックボックスになっておらず、自分たちで自由にいじれました。ですから、どのようにソフトを使いこなしていくかが研究のテーマになりました」
――博士課程を終えてから、アルミメーカーの日本軽金属の技術センターに研究員として
入社されます。どのようなことを研究されたのですか?
「はい、3年間お世話になりました。職種としては一応研究職でしたが、どちらかというと開発よりだったと思います。アルミの押出しや圧延などの塑性加工を担当しました」
――大学時代研究したプラスチックと金属のアルミでは同じ塑性加工と言ってもかなり特性が違うのでは?
]]> 「いい質問ですね(笑)。実は私もそう思っていたのですが、実際はアルミも同じでした。会社ではメーカーの下受け的な仕事ですが、新幹線のN700 系のボディやトヨタ自動車のレクサスの部品をアルミで開発しました。N700系のボディはダブルスキン構造といって、段ボールのように薄いアルミの板が数cmの間隔で固定されていて、その間に制振材などが充填されています。このアルミの板は厚さ数mmととても薄く、しかもとても高い精度が求められました。この精度が現場ではなかなか達成できなくて、私のところに仕事が回ってきて、シミュレーションを用いて解決しました」――「教員録」の先生の「専門分野」には数々の受賞歴が載っています。この中で代表的な研究はどのようなものですか?
「省エネでLED電球が主流になりつつあります。この寿命を決めているのは実は熱なのです。熱を溜まらないように逃がしてやればLEDの寿命はもっと伸びます。私が思いついたのは導電性プラスチックで、ある物質をプラスチックに入れてやると電気を通す導電性プラスチックができます。この材料は作り方を工夫すると製品の導電性をコントロールできるのですが、それと同時に、特定の方向に熱も逃しやすい性質が出ます。この技術を応用してLEDを長持ちさせる部品ができたのです」
――LED の長寿命化が先生の研究と結びつくとは思いつきませんでした。
「また、自動車産業は軽量化の観点から金属とプラスチックを一体化することを試みてます。しかし、この2つはくっつけにくいのです。これを互いにかみ合うような構造を設計して製品の成形と接合のプロセスを一体化し、製品化することに成功しました。こうした研究はメーカーさんの影に隠れて表には出にくいのですが成果として誇れると思います」
学生と一緒に考え研究したい
――現在、一番力を入れているのはどのような研究ですか?
「同じく自動車の軽量化です。軽くするには部品点数を減らすか、材料を変えるしかありません。金属の部品をプラスチックに変える研究しています。またプラスチックの中にラムネのように気泡が出来る材料を入れ、圧力が少なくなると膨らんで軽くする研究もしています。もちろん、泡が表面に出てきたらダメですし、結果として強度が不足してもダメなので難しい。しかし、うまくいけば、外観も強度も変わらないのに軽量なプラスチック部品ができるのです」
――そもそもメーカーからKITに戻ってくるきっかけは何かあったのですか?
「ここにものづくり研究所ができたのがきっかけです。特別研究員として戻ることができました。2010年から講師となりましたが、大学に戻るにあたっては"学生と一緒に研究したい"と要望してます。
大学で教えるとなると、実験やデータ集めは学生にまかせて自分は論文作成に精を出すという具合になりがちですが、そうなりたくないと思ってます。
先ほどの金属とプラスチックをくっつける研究ですが、私自身はなかなか既存の発想から抜け出せませんが、学生たちは柔軟で思わぬ発想にはびっくりさせられます」
このインタビューは始まってから約12年になる。初期の頃、紹介させていただいた先生の弟子の世代、二代目の先生が次第に研究を受け継いでいる。環境土木工学の花岡先生、電気電子工学科の柳橋先生についで瀬戸先生はこのインタビュー3人目の二代目研究者だ。最先端を狙うKITだが研究のバトンがしっかりと次世代に引き継がれているのが確認できる。
]]>――先生は伊香保温泉で有名な群馬県渋川市の出身ですが、KITに来られた理由は何かあったのですか?
「お恥ずかしい話ですが実は高校時代、あまりに勉強してなくて先生に"君は大学に行くべきではない"とまで言われてしまいました。しかも地元の工業大学だけには行きたくないと思ってました。
そしたら先生が怒ってしまって"お前がそんな贅沢言うな"みたいなことを言われてしまって。"行けるかどうか、受けてみなければわからないだろう"と。それで、あちこち受けて何とか、こちらに受かったというわけです」
――それは、なかなか反骨精神にあふれた高校生でした。博士課程は京都大学に進まれました。何か縁があったのですか?
「KITの修士を出た時は普通に民間に就職するつもりでした。アカデミックな世界に行くつもりはなかったのです。ところがちょうど就職氷河期で採ってもらえなくて。大手の建材・住宅会社の8次試験ぐらいだったと思いますが、重役面接で落とされてしまいました。
夏休みも終わる頃でした。何もやる気がなくなって。そしたら4年生の時にお世話になった京都大学の先生が"じゃ、うちに来るか?" と声をかけてくれて。それで無職というか浪人にならなくて済んだというわけです。積極的に選んだ道ではないのです(笑)」
――建築の構造でも木造系を選んだ理由は?
「あまりよく覚えていないのですが。選んだ研究室が木造系に力を入れていて。いざ調べてみると、いろいろとアカデミックなところが全然解明されていないことがわかりました。これは面白そうだと。
京大の先生がお酒を飲みながら話してくれたのですが、"日本において木造文化がなくなることはないよ。これからも木造をちゃんと研究しないと地震被害もなくならないし、人命を救えない"と。それで"これはやりがいがあるなと思って、そのままのめり込んでいった感じですね」
――なるほど。
「元々その先生が振動の先生で、理論の先生です。だから実験もしないし、ずっと解析ばかりする研究だったのです。論文も建築学会よりも数学の学会などに書かれていました。
その先生が兵庫県南部地震を経験されて、自分の研究があまり役に立っていないことを痛感されたらしいのです。悲惨な状況を目の当たりにして、これは何とかしなくてはいけないと思われて、木造に転向されたのです。そのタイミングでその先生と関わらせていただいたので、今でもずっと一緒に」
外見を保つ耐震化は難しい
――2012年からKITに戻られた。こちらではどんな研究を?
「KITには木造の先生がいらっしゃいますので、私は建築構法とか建築材料をやることになってます。伝統的な木造建築の耐震性をベースに構法的に考えたり材料的に考えたりしています」
]]> 「最近取り組んだ研究の事ですが、京都の北方、丹後半島の付け根に与謝野町という町があります。そこに結構大きい昭和2(1927)年に建てられた昔の木造庁舎があるのです。これをリフォームして町で再活用したいという話が来ました。そうすると、第一にその建築の安全性を確かめなくてはなりません。ちょうど大きな被害を出した北丹後地震の直後に建てられた建物なので、町としては残して使いたい。見てみると、いろいろなところに不具合があるのです。良く調査して構造的な特徴を明らかにする。その後で、工学的に明らかでないものは実験して確かめる。そういうデータを集めて耐震性能を評価して新たに設計していくという流れです。その中で、材料としてコンクリートの基礎を抜き取って再現して補強する方法を提案したりしています」
――1927年だと基礎はかなり弱そうですね。
「その頃はコンクリートが入ってきているので、その時代の建物すべてが弱いわけではありません。ただ、現場がかなり田舎なので、多分、材料も高価だったこともあって品質が悪いのです。それを補強しないといけないというのが一番のテーマとしてあります。実験するにあたって、その品質の悪いコンクリートの試験体を作らないといけないので、その再現がすごく難しいのです」
――素人的にはよくある耐震補強工事のように鉄骨でも使って補強すれば良いのではと思いますが。
「要は古い建物のいいところは古い外観がそのまま残っているのが重要なのです。町もそれがシンボリックに残るから良いのです。だから、そうやって鉄骨がむき出しで丈夫になっても町の人は面白くないのです。見えないところで補強するというのが重要なのです」
――金沢も残さなければいけない建築が多そうですが。
「私も伝統的な建築をやっているので関心はあります。武家屋敷や主計(かずえ)町、ひがし茶屋街などは多分、まだ大きな災害に見舞われていないのです。例えばの話ですが、もし金沢市を巻き込む大地震が発生したら、これらの地区にある建築は倒壊してしまうでしょう。そして同じものは二度と造れません。だから、この辺の耐震化はもうちょっと何かしないといけないと思います」
――外観を損なわせず進める方法があるのですか?
「まさに、その方法を研究したいのですよ(笑)。難しいのは主計町なら主計町、茶屋街なら茶屋街と、地域によって建物の特徴があるのです。ですから耐震補強のやり方も違うのです。そこら辺を一つ一つ丁寧にやって、補強方法を提案し耐震化を進めていけたらと思っています」
高校の恩師から「君は大学に行くべきではない」とまで言われた"劣等生"が一念発起してKITに。さらに就活でも躓いたが、知り合いの研究者に助けられてアカデミックな道へ。須田先生の経歴はなかなかドラマチックだ。
]]>――柳橋先生は平間淳司先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2011/11/post-55.html )のお弟子で、電気電子工学科でキノコの研究をされていますが、平間先生の研究のどこに惹かれたのですか?
「学部4年生の卒論を選ぶときの研究室紹介で、圧倒的に一番行きたいと思いました。何といっても"世界で恐らく自分のところだけ。他にはこんな研究をしているところはありません"という断言が魅力的でした。先生の考え方は、工学で植物の電気信号を測るのだけれども、それはあくまで生き物相手である。生体を相手にしようというのが斬新だった。やはり、研究するには他人がやっていないことをやりたいですから」
――エレクトロニクスの方法で植物と対話するというのは昔からあるような気がするのですが。
「最近はよく聞くようになってきたのですけれど、平間先生が研究され始めた20数年前というのは、その概念はあったのですが、ほとんどが植物の食べる部分の色や形のデータをパソコンに取り込んでデジタルデータとして処理しようというものでした。
植物の生体電気、生体電位という信号を捉えるという研究はわずか。特にキノコ類では皆無でした。」
――それで、研究しながら教育もしたいと。
「はい、自分が学生の時から職業としては教員が良いと。大学もしくは高専の教員としての職業に就きたかったのです。将来を考えた時に、研究はある程度やって成果をあげるには他と同じことをやっていては仕方がないと。誰もやっていない研究というのは何をやっても成果を上げやすいのではと」
――なるほど、若いのにそこまで考えてた。
「それと、もともと趣味で植物を育だてたり、魚を飼うなど生き物が好きだったのです。これはちょうどいいなというのがあって。電気工学を研究しながら生き物と関わり会えるのですから。キノコはそれほど関心がありませんでしたが生き物に変わりはありません。
平間先生のもとで、誰もやらないことをやろう、いろいろなことをすれば成果も上がるだろうと」
――教員録の先生の研究を見ると。"マイクロ水力発電"というのもありますが。
「これは小川など小さな水の流れでも発電できるようなシステム作りの研究です。私はKIT併設校の高専の出身で、高専時代は電力システムに興味を持っていて電力の勉強ばかりしていたのです。研究室が決まるまでは、大学でも電力系の科目はたくさん履修していていました。ですから、今でも教員の担当が決まらない科目があると"大丈夫です"と引き受けてしまうのです(笑)」
――具体的にはどんなキノコを使うのですか?
]]> 「マイタケ、エリンギなどいろいろ使います。針のような電極をキノコのカサの下に差し込んで計測します。光がある程度当たるところで、比較的安定してさせる肉厚の部分を選びます。大体慣れてくると、ここに刺すのが一番いいかなと。想像ですが注射でここの血管に刺すと良いかなというような感覚ではないかなと」――そもそもなぜキノコから電流が流れてくるのですか?
「それが良く分かっていないのです。ごく簡単に説明すれば植物の場合は、光合成があるので光が当たると植物の細胞活動が変わるのです。細胞が活性化して、細胞中の溶液のナトリウムとかカリウムのようなイオン成分が細胞膜を通って移動が起きる。イオン濃度の勾配が起きると電位差が生まれ、それが電流になります。
ところが、キノコの場合、光合成はないです。しかし、キノコでも光が当たると電流が出るので植物と似たようなメカニズムだろうと。もう少し詳しいところはまだ解明されていないのです」
――キノコの中で生体電位差が生まれる、電流が出るというのはキノコが嫌がって出しているのか、喜んで出しているのか、どちらなのでしょう?
「私の考えでは細胞の活性化と関わっていると考えられるので、内部で何か成長するような、大きくなる方向、元気になっている、喜んでいるのだと思ってます。
でも、光の刺激に対し、危険を感じ、早く胞子を落として子孫を残そうとしているのかも。だから成長を活性化していると。嫌=活性化=電流という可能性はあるのです」
――キノコに"言葉"があれば、どちらかが判るのに。
「ええ、でも、その2種類ともあるのではないかと。ただ電位の大きさだけを測ってる分には、その2種類は区別できないのです。それで少しずつ、ここから工学の分野ですけれども、その信号をある程度解析する。含まれている周波数情報とかですね。信号に隠されている何かを読み解きたいと思ってます」
キノコ類は注目されていない
――最終的には、この研究でキノコの量産を目指すのですか? それとも早く大きくするのを目指すのですか?
「目標は大きく2つあります。1つは、研究成果はやはりどこかに還元されなければいけない。だから早く成長する、収穫が増えるといったことを目指します。さらにキノコにある薬効成分をより多く抽出できるように育てていく。つまり利益を上げる目標ですね。
もう1つは、単純にキノコの生体に関する基礎データの追求、探求。結局、工学的な立場からのキノコの生態というのはまだ明らかになっていません。誰もやらないのであれば私の方で色々なことを調べて、キノコというものは工学的に見ると一体何なのかというデータを示していきたい。これは純粋な研究で利益には繋がらないものかもしれませんが、この研究室から発信していきたいと思っています。
「日本は多湿でキノコの繁殖に向いていて、よく食べられています。研究も行われています。しかし世界的に見るとキノコを全く食べない文化もあります。自然界の3界、3本柱は、動物・植物・菌類なのですが、菌類は動植物に比べると全然注目されていないのです。したがってまだまだ研究の余地はあると学生に説明しているのです」
柳橋先生の恩師、平間先生とのインタビューでも実は何故キノコから電流が出てくるのか詳しいメカニズムは分かっていないとのことだった。約10年後、弟子の柳橋先生も同じことを話している。基礎研究の宿命でこれは相当息の長い研究になりそうだ。
]]>――先生は新潟県立長岡高校から茨城県の国立筑波大学第三学群情報学類に進学されました。大学時代は何を研究されたのですか?
「僕は情報と言いながらプログラムを書くのは好きではないということもあって、アナログフィルターの研究をしてました。当時の筑波では中に入ってから工学か情報科学科、要するにハードかソフトに分かれたのだと思います」
――アナログフィルターとはあまり聞いたことがありませんが、どのような用途に使うのですか?
「今はあまり使うことがないと思うのですが、コイルとコンデンサーを組み合わせて作るアナログ回路によるフィルターの設計方法です。例えばデジタルオーディオなどで、いろいろなアナログ信号をデジタル化するにしても、必ずデジタルにする前にアナログフィルターで、必要な周波数を取り出したり、要らない周波数をカットしたりするフィルターが必要なのです。
それを小型化したり、特性を良くしたりする、どちらかと言えば地味な感じの研究です」
――それで大学院まで進まれます。
「研究職に進みたかったので、やはり大学院まで行ったほうが良いと思ったのです。それで研究室に入ったら、そこで先輩から代々引き継がれていた、電総研の実験補助的なアルバイトがあって、それをやることになりました。
電総研は電子技術総合研究所の略で、現在は産業技術総合研究所、産総研というのですが、日本のエレクトロニクス研究の総本山のようなところです。それが同じ筑波研究学園都市にあったということがラッキーだったのです。
最初は、色々な回路のハンダ付けの手伝いなど雑用をしていました。何しろ学生のバイトですから。そのうち賀戸 久先生がどこからか電総研に戻ってこられて脳磁計の研究をすることになったのです」
――脳磁計というと脳の磁力を測るのですか?
「はい、そうです。脳磁計は脳の中のごく微弱な磁力の変化を観測して脳のさまざまな研究をするための計測器です。CT やMRIは人体の形状から病変を診断しますが、脳磁計は脳の神経活動から起きる磁場変化を微細に計測できるのです。
すごく弱い磁場を測るので、昼間だと車やいろいろな機器が動いていて、計測の邪魔になります。そのために、夜中に観測しなければならないのです。当時、賀戸先生が狙っていたのは、すごく脳の深いところから出る信号なので、レベル的にはすごく小さいのです。」
――それで、夜中でも大丈夫な学生アルバイトが被験者となった?
]]> 「はい。私なら夜中に来れますと(笑)。人が音を聞くと、耳から入った音は、最初は脳幹から入って最後は大脳皮質へ行きます。とにかく、すごく弱い信号なので、1回ポッとやって取れるようなものではなく、長い時間、音を聞いていて、何万回か加算平均してやっと出てきます。当時としてはまだ誰も測った人はいなかったのです。」――それは大変な実験ですね。
「やはり長い時間なので起きていると耐えられない。じっとしていなくてはいけないので、寝て行います。終わると顔に測定器具の跡が付いていてなかなか取れなかったです(笑)。
"今日もダメか"、終わった頃には夜が明けていて、"じゃ、もう帰ります"。その繰り返しでした。でも、なんとか取れるようになって、学会は新聞に発表もして、電総研の脳磁計はすごいと評判になったのです。」
――被験者になった甲斐があったわけですね。
「それで、賀戸先生が有名になられて、これは行けそうだ、脳磁計は有望だ、みたいな事になりました。当時、いろいろな企業から研究者が、実習生として電総研に集まってきました。本格的にセンサー作りをやりましょう。さらにきちんとして会社を作ってやりましょうとなり、超電導センサー研究所ができました。」
「私は一旦、民間会社に入って脳磁計から離れるのですが、やはり脳磁計の技術に関わりたいと賀戸先生に相談して、超電導センサー研究所に出向という形になりました。そこで私はデータ解析、データ処理などを担当させてもらいました。」
――1995年からKITにいらっしゃいますが、どのようなご縁で。
「超電導センサー研究所は国のプロジェクトだったので、何年かで終わることになっていました。そこでKITが賀戸先生と私を含め、脳磁計関連の4人を一緒に引き受けてくれたのです。」
MITに派遣される
――なるほど、KITとしては優秀な研究者のグループが一挙に手に入るわけだ。今度は米国のMIT (マサチューセッツ工科大学)に行かれますね。
「KITで脳磁計を独自に開発していたら、MITの言語学の先生が興味を持たれまして。是非、言語学の実験に使ってみたいと。それで、我々がずっと面倒を見て、使い方やメンテなども教えたのです。私はちょうどMITに1年間いました」
――先生はKITで長い間、脳磁計専門の研究者として過ごされてきましたが、2018年から独自の研究室を持たれ、学生の授業を担当することになったのですね。学生にはどのようなことを教えているのですか?
「応用バイオ科なので、学生さんのフィールドというか関心とは離れている部分もあるので、データの集め方、分析法などを教えられればと思っています。数学や信号処理などの難しいことを知らなくても出来ることです。
「ええ、でもいろいろ話を見いてみると脳情報などに興味を持つ学生もいるのです。脳関連の先生が少なくなってきているので。そのような学生たちに協力してもらって人を使った研究もしてみたいなとも。せめてKITの学生さんたちには脳磁計とはどういうものなのか知ってもらいたいと思っています」
ずっとKITに所属しながら脳磁計の専門家として教育とはほとんど縁がない立場にいた樋口先生。KITの中でもユニークな存在だ。新鮮なアプローチで学生を指導することで刺激を与えそうだ。
]]>――和歌山県ご出身の先生にお会いするのは多分初めてです。KITにこられたきっかけはあったのですか?
「今時の学生によくありがちなというか(笑)。高校の先生が勧めてくださったのが一番ですね。和歌山なので大阪とか近辺に理系の大学はたくさんあります。当然、そのような近くの大学も受かったのですが、先生が"金沢工大が良いのでは"とおっしゃるので"先生がそう言うなら、良いか"みたいな感じです。
出身高校が御坊商工高校(現 紀央館高校)と言って商業科と工業科がありました。もちろん工業科です。高校時代はどちらかというと機械系で全然土木ではなかったです。車のエンジンを分解して組み立てたりとかというのを教わったのですが、いまいち興味がなくて」
――KITの評判が和歌山の先生にまで伝わっていたということですね。どうして土木に興味を?
「たまたま自宅近くで、高速道路を作っている現場があって。その仕事を見ているうちに"土木は面白そうだな"と。前から形に残る仕事をしたいなとも思っていたので」
――それで無事、KITの土木に入って学科の授業で宮里先生と会うわけですね。
「それが、実は私は宮里先生の授業は受けことがないのです。当時は定員も多かったことや学科内部のコース分けの関係です。研究室を選ぶとき時に別の先生(木村先生)と相談していると、その先生(木村先生)が"宮里先生のところが良いよ"と勧めてくれ、直ぐに宮里先生を訪ね、面白そうだと思い研究室を決めました。結局、高校の時と同じで先生の勧めで進路を決めています(笑)。」
――それはまた珍しいケースですね。それで宮里研のどこがよかったのですか?
「今でこそ、外の企業と産学連携とかを結構頻繁にやっていますが、私が学生の頃は学科も周囲もそうではなかったです。その中で宮里研は積極的にいろいろな人に会わせてもらったり学会にも出させてもらったりで、広い勉強ができたのが良かったです」
――先生は一旦、企業に勤務されたのですか?
「はい。東亜建設工業(株)という東京に本社がある会社に7年間勤めました。どちらか言うと海の工事が得意。空港とか埋め立ての防波堤とか。もちろん陸の工事もやっていますけれど。7年の半分は横浜市の鶴見にある研究所で。残りの半分は北陸新幹線の建設現場にいました。富山の高岡です」
――研究所ではどんなことを? 基礎的なことですか?
「いや、何でもやりますね。本当に新しいものの開発もしますし、現場で困ったことを解決しに行くようなことも。入札というか工事を受注するため支援も行ったりもします。もちろん大学との共同研究もあります。
そもそも東亜に入ったのも学生の時に共同研究をしていて、そこで知り合いになったというのもあります。後、博士課程の時にインターンで東亜に行っていました」
――企業での研究内容をもう少し具体的に教えていただけますか? 今ひとつイメージが湧きません。材料開発などでしょうか?
]]> 「材料開発もありますし、私のいたところでは港湾構造物(桟橋など)の維持管理やリニューアルに関する研究開発を主に行っていました。老朽化した構造物の点検方法や補修方法に関する研究開発を行ったり、最近、流行りになっているメンテナンスや点検をどのように進めるかとか」?――鉄筋コンクリートが塩水でボロボロになるのは今でも防ぎきれないのですか?
「最近、作ったものは比較的、対策がとられているので、きちんと施工されていれば多分10年や20年でやられることはないと思うのです。しかし、1950年代に作られた構造物がすごい数になっているので、それをどうしていくかが最大の問題です」
――最近のものはどうして耐えられるようになってきたのですか?
「例えば塩分が入りにくいようなコンクリートで最初から作るとか。あるいは錆びないように塗装した鉄筋を入れる。場合によっては鉄の替わりにステンレスを使う。さらに最新のものではFRPを補強材に使う例もあります」
――コストがかかりそうです。
「初期コストはかかりますね。なのでケースバイケースです。最近の事例ですと羽田空港の拡張工事。あそこはやはりすごく重要で航空機の発着陸の頻度も高いので、もう最初からお金をかけて良いものを使ってます。後のメンテナンスもできるだけ避けたい。
作った後で10年20年30年とちょくちょく直していくとコストが階段状に上がっていきます。やはり初期コストが重要。最初に何百億円かけて良いものを作ってしまえば後はそれほどかからない」
センサーの数、位置が問題
――2016年にまたKITに戻ってこられて、今は特にどのような研究をされているのですか?
「学生の時からやっていた鉄筋コンクリートの維持管理、補修ですね。耐久性とか、どのように劣化するのか、それをどのように直していくかなどです。最近ではセンサーを付けてそれをモニターできないかと。
それと廃材として出る古い屋根瓦を新しい材料として再利用でないかなどの研究もしています」
――モニターはどうやって測るのですか?
「電気化学的な領域になるのですが、鉄が錆びると電位が上がるのです。それをセンサーで検知します。
そうしたセンサーを使おうとすると、どうしても1回埋めないといけません。すでに作ってあるものなら、一旦、コンクリートを一部壊してセンサーを近くまで入れてまた埋め戻す。最初からセンサーを入れて新しく作る時は、どこに何個入れれば良いのか?
まだまだ未解決の問題が多いので研究しがいがあるわけです」
橋や道路など土木構造物のメンテナンスの研究は息の長い地道な領域だ。2008年にインタビューした宮里先生から、また若い花岡先生に研究がしっかりと継続されていて頼もしい限りだ。
ーー先生は本学では珍しい京都工芸繊維大学のご出身です。京都工繊大の英語の表記はKyoto Institute of Technology で略称はKIT。本学と同じです。混乱しませんでしたか?
「ずいぶん昔のことなので、もう慣れました(笑)。」
ーー理系に進まれたのは何か理由がありました?
「小さい頃から実験好きでした。"子供の科学"などの児童向け雑誌に載っていた実験に夢中になったのです。だから友達もみんな自然に理系に進むとものだと思っていました。そうしたら実際には2割しかいなくて。あれ?という感じでした(笑)。
実験は今でも大好きで、学生にやってもらう実験も本当は自分がやりたいくらいです(笑)。」
ーー材料に進まれたのは?
「学部3年の時に、授業でFRPというものに初めて触らせてもらいました。これは新しい材料でまだそんなに歴史がないという説明で興味を覚えたのです。
私は破壊試験を担当しました。材料を作っては壊しみたいなことを続けます。金属だと、この部分にくびれが生じて亀裂が入って壊れると決まったプロセスで予想がつきます。ところがFRPはやってみると訳が分からなくて。それをどうやって解明するのかと迷いました。
それが、なかなか奥が深いというか、分からないことだらけで、今でもよく分かりませんが、ただ、それをもうちょっとやってみようかなと思ったのが多分きっかけでしょうね」
ーー先生が最初に壊したFRPはどんな種類のものだったのですか?
「今考えたら一番難しいのですけれど、ランダムにガラス繊維が入っているやつです。だから繊維の方向があちこちに向いているし、入っている場所もいろいろだし、無茶苦茶なのですよね。でも強くはなっている。プラスチックだとムニョーンと伸びるようなとこが、伸びないでブチッとちぎれる。しかもバリバリとね。
今はガラス繊維ではなくほとんど炭素繊維を使っているのですが、当時は炭素繊維は高くて買えませんでした」
ーーそれで分からないという魅力に取りつかれたという感じですか?
]]> 「そうですね。4年生になって、もうちょっと勉強しても良いかなと思って修士に進もうとしたのですが、先生が忙しくなられて別の先生を紹介されました。その方もFRPの権威で今でも恩師ですが、強烈な方です。進学して1週間ぐらいの時にいきなり"今度、外国のお客さんが来るから英語で発表しなさい"と言われました。"このスライドの中から選んで自由に発表しなさい"と。すごい研究室に入ったなと驚きました。でも修士2年の間に学会にも多く連れて行ってもらいましたし、国際会議にも行きました。すごいアクティブに動かれる先生で、ついて行くうちに"研究は面白いな"と思って、とうとう博士課程に」
ーー京都のKITから金沢のKITにダイレクトに来られたのですか?
「そうですね。ドクターの一時期、ちょっと会社の研究所に行こうとしていた時期もありました。迷っている時に本学の金原勲先生(元副学長、現 研究支援機構顧問)がポスドクを募集していると、京都の先生から言われたのです。先生同士が知り合いだったのです。それで応募して、そのままずっと」
FRP製自動車が最終目標
ーー大学に見学に来た高校生たちには先生の研究対象のFRPについては、どのように説明されてますか?
「FRPは何となくなく知っている高校生もいるのです。特にスポーツをやっている子は多いです。テニスのラケットは今ではFRPしかありません。軽いので。大昔は木材、ちょっと前は金属もありましたが。
あと釣りざおもそうだし、ゴルフのシャフトもそうだし、探すといろいろなところでいっぱい使われている。
飛行機の部材もどんどんFRPに置き換わっていますし、自動車の一部にも使われています。F1の車体などは元々ほぼオールFRPです」
ーーそれは高くても構わないからですか?
「そうです。FRPは型を作った繊維にプラスチックを浸み込ませて固めて作ります。その浸み込ますというところが大事で、そこが効率的にできるかどうかでFRPが効率的にできるかどうか決まってしまいます。
今だと特に自動車業界が最後の出口と言われていますが、ゆっくり作ると結局コストが合わないのです。軽くて良い材料なのですが、素材そのものも高いし、製造プロセスも遅いので全体としてコストが高くなってしまう。
自動車の車体に使う金属だったらプレス機でガッチャンとやったら数秒で出来上がります。ところがFRPは1個につき数十分とか数時間とか時間をかけて作っているのです。全然、金属には敵いません」
ーーそこがネックになっている。
「そうです。今やっている研究の1つはプラスチックを浸み込ませるプロセスなのです。そこをもう少し効率的にするような理論や方法はないかと模索してます。
その方向は世界中の研究者、技術者が競っています。作り方も材料もいろいろあるので
どれがベストか簡単には答えは出ないのです。本学には複合材料の研究所がありますが、そこでも似たようなことをやっています」
ーー他にFRPの課題は?
「実はFRPはリサイクルとかリペアが非常に難しい材料なのです。そこは環境第一の時代にそぐわない。プラスチックの種類を変えて熱に溶けて再利用できるものにしようという動きがあります。この研究も世界中で行われています」
自動車産業についてマスコミは自動運転、電気自動車、燃料電池の話題ばかり取り上げるが、既存の車の車体を軽くするFRPについては無関心だ。しかし、斉藤先生によると、安くてエコロジカルなFRP車ができれば大きなイノベーションとなるので研究、開発競争は世界中で行われているという。興味深い話だ。
]]>――いきなり失礼ですが、最近の子供はともかく先生のご年齢としては"くにお"という平仮名のお名前は珍しいですね。
「実は父もコンピュータ技術者だったのです。ごく初期だったので8ビットの世界でした。8ビットだと256文字しか表現できないので、漢字はコンピュータでは表現できないと父は思っていたらしくて。
もともと父は通産省関連の研究所にいて、辞めて静岡大学の教授になったのです。それで私も中3の時に東京から浜松に移りました。そして静岡大から富士通に入り、2017年から縁あってKITに来ました。期せずして父と同じような道を歩むことになりました」
――靜大の学部卒からすぐに富士通研究所に入られたのですか?
「はい。当時は学部からでも研究所が採用してくれたのです。やはり平仮名の名前のこともあるので入社の時に"日本語処理、漢字処理がやりたいです"と言いました。そしたら、会社は"いや、日本語だけでなく英語も助けてよ"と言われ、最初にやったのは機械翻訳でした。その機械翻訳が、まさに私のAIとの出会いでした」
――機械翻訳というのはあまり聞いたことがありませんが?
「今、Googleなどが普通にやっている、コンピュータを使ってする自動翻訳のことです。当時、英語でmachine translationと言ったので、それを直訳したわけです。
人工知能の第2次ブームでした。ルールベースというのですけれど、プログラムはif then else いわゆる"もし、こうだったら、こうしましょう"、"そうでなかったらこうしましょう"というif then else の連続でお化けみたいなシステムだったのです。
例えば医療診断とかですね。"こういう症状があったらこの病気だ"とか"そういう病気だったら、こう対処しましょう"と、といった具合です。翻訳は言葉をコンピュータで分析して日本語から英語に、英語から日本語に直すのです。
現在のAIブームは第3次と言われ、学習系あるいはディープランニングという進化した方法が取れれています」
――そう言えば、当時の第2次人工知能は、専門家の知識、経験を、コンピュータに替わりにやらせるという意味でエキスパートシステムとも言っていたのを思い出しました。それで翻訳もできたのですね。でも日本語は難しくないですか?
「はい、よくそう聞かれるのですが、言葉の難しさはみんな一緒なのです。日本語が特に難しく見えるのは、単語と単語の間に切れ目がないからです。英語だとブランク、空白があって単語というのはしっかり分かれていますが、日本語の場合は全部続けて書くので、まずは文章を単語ごとにしっかり切り分けるということが必要になるのです。その単語に分けたものを分析していきましょうというので、そこはそれほど難しくはないのです」
――難しいのはどのようなところですか?
]]> 「われわれの使っている言葉というのは色々な意味があるのです。例えば英語だとspringには"春"と"バネ"という2つの意味があります。1つの言葉が、いろいろな意味を持っていることがいくらでもあるので、それを解析するのは難しい。例えばspringが春の方だったら、当然、前後の言葉は季節とか花とか、そのような言葉がたくさん出てくるはずです。一方、バネだったら機械系のネジとか歯車とか出てきます。他の周りの言葉が決め手になって、その言葉の意味が決まってくる、そこを分析するのがポイントです」
――その機械翻訳の研究は実用化に結びついたのですか?
「もちろん企業の研究所ですから製品事業部とも関わりがあって、ATLASという機械翻訳システムになりました。レンタルですが、すごい高額になりましたが、自動車会社のマツダが最初のユーザーになってくれました。日本語の整備マニュアルを英語にしたいとのことでした」
――先生はその後、富士通の中国研究所を立ち上げたり、シリコンバレーで新事業を起こされたりしました。最先端で多彩な仕事をされた後、2017年からKITに来られました。ここではどのような研究をされていくつもりですか?
「言葉を扱うことをやりたいのですが、現在、共同研究先の方と一緒にやっているのが、既存の点字ブロックを利用して、視覚障がい者の方にAIが周囲の情報を伝えるシステムです。点字ブロックにマークをつけておいて、これを視覚障がい者の方が、白杖に付けたカメラで読み取り、来た方向に合わせたきめ細かい情報をイヤホーンなどで教えてあげるのです。
例えば、視覚障がい者がこの点字ブロックを手掛かりに歩いてきたとします。そうするとこのT字の角で"正面に金沢駅があります。右手には音楽堂があります"といった案内が聞こえるようにします。一方、90度違う方向から、この角に歩いてきた方には"左手に金沢駅があります"と違う案内を出さなければなりません。
点字ブロックが十文字にクロスしている箇所では4つのどの方向から来たかによって案内メッセージを色々と変えることができるのです。
2019年に金沢駅の地下通路で行った検証実験では様々なデータを得ることが出来、今後の研究開発に生かしていきたいと思っています」
学生はもっと質問を
――KITの学生はどうですか?
「最近はどこの学生もそうかもしれませんが、静かですよね。おとなしい。やはりアメリカ、中国などでも学生を見る機会がありましたが、大きな違いは教室の席の埋まり方ですよ。アメリカや中国は前から埋まっていきますが、日本は反対に後ろから。
質問も少ない。1年生は結構、質問をしてくるのですが、段々減ってくる(笑)。ある授業では終わりに授業の要旨を書いて提出させるのですが、必ず質問も書いてもらう。それを重視して次に授業では代表的な質問を選んで、それにきちんと答えてあげるようにしました。そうすると、質問のレベルがどんどん上がってくるのです。
インタラクティブに毎回毎回、答えてあげると、"なるほど、こういう風に質問すればいいのか"と学んでくるのですね」
KIT教員録にある松井先生の自己紹介によると、150年前、先生のご先祖は加賀藩の足軽だったという。AI技術を携えた末裔、久しぶりの里帰りで思わぬアイデア、イノベーションが生まれるかもしれない。
]]>――先生は奈良県の進学校で有名な東大寺学園高校のご出身です。私はこちらの卒業生には初めてお会いした気がします。やはり東大寺の近所にあるのですか?
「はい、元々は東大寺の南大門を入ってすぐ左側にあったのですけれど、狭くて不便なので、私が高校に行く頃は高の原という山の方の広い所を買って、そちらの方へ移っていました。
東大寺が運営をしているというか、理事の方に僧侶がいらっしゃる。学校の運営には全く口出しはされないのです。スパルタ教育ではと思われる方がいらっしゃいますが、かなり緩いところです。当時は、雨が降ったら生徒の半分は登校しません(笑)。放っておいてもみんな勉強するので」
――京都大学の機械工学科に進まれますが、何かきっかけはあったのですか?
「数学や物理は元々好きでした。中学生の頃、友達がテレビのF1中継を見はじめまして、それに影響されて自分も見始めて、面白いなと。時々、メカニックに日本人がいたりして。格好良いなと思い始め憧れました。」
――順調に大学院まで行けたのですか?
「学部でそれなりの勉強はしたのですけれど、マージャンにも熱中してしまいました(笑)。5~6人の友人グループがあったのですが、マージャンは4人なので1~2人余るではないですか。ゲームで負けた人がレポートの課題をやり、残りの友人に教えるというルールにしたのです。必死で勝ちに行くのですが、負けたら仕方がないから一生懸命勉強して、みんなに教えられるようにしました。意外とマージャンも勉強も両方できたりして(笑)。」
――修士ではどのような研究を?
「学部4年で研究室に入った時に複合材料の研究をしているところに入りました。最初はセラミック繊維というものです。
ジェットエンジンのブレードとか発電に使うタービンのブレードとかは、耐熱性のある金属を冷却システムを使って冷やしているのです。材料そのものに耐熱性がもっとあれば、もっと高温で使えて効率が上がるわけです。
そうなるとセラミックぐらいしか候補がないのです。セラミックはお皿などと一緒でちょっと傷があれば割れてしまいますよね。ブレードが割れたら大変なことになります。けれど、それに繊維を入れることによって、亀裂が来ても繊維の方向に逃がすというか、一気に割れないようにする複合材料があったのです。」
――簡単に言うと高温にもショックにも強い材料ですか?
「そうですね。そのような新しい材料が出てきたので、当時の恩師から"田中君、新しい材料をある会社がくれると言っているから、引っ張り試験をやってみないか"ということになりました。そんな材料は高温の炉などすごい設備がいるので研究室では作れません。企業との共同研究のおかげです。この研究は博士課程まで続きました。」
――京都大学の助手から07年KITにこられました。何か縁があったのですか?
]]> 「元々、京大の機械工学科が、よほどの研究業績を残していないと内部から上へは上げないという内規を作ったのです。外部から新しい人材を入れるという意味だと思います。それで、どこか他の大学に行かねばと思っていました。どうせ、外に行くのだったら学会などでいろいろディスカッションしている中で一緒に研究をしてみたいという人のところに行きたいと思っていました。そのような方が4人いまして、そのうちの1人がここの金原 勲先生だったのです。KITから最初にお声をかけていただいた時は、金原先生と一緒にやるという話ではなかったのです。勝手にご一緒にやれたら良いなと思っていまして、来たらなぜか金原先生と同じ研究室になっていました。」
理論と実験のバランスを
――先生は現在、バイオ関連の研究もしているのですか?
「複合材料関連の研究も当然、続けています。その知識を再生医療用の材料を作ったり、微細構造を制御したりするのに使っています。それを体の中に入れなくてはならないので、うまく細胞と共存したり、細胞の挙動を制御できないといけないので、そのために細胞の研究もしているところです。」
――材料とバイオという2つの領域の研究しているのですか?
「そうですね。今2本の研究の柱があって、真ん中にバイオマテリアルみたいなものがあるのですが、最後にこれを合体したいのです。それがゴールです。
例えば生体の持っているような、自分で治るとか、もっと環境に適応するとか、こちらの方が多分、難しいのですけれど、そういう機能は人工の材料ではなかなかありません。それを模倣というか、真似するにはどのような原理が必要か。そのようなモノを作ったり、逆に骨そのものを複合材料を作るように作ったり。そうなると再生医療ではなくて、体の一部なくなったところに、その材料をただ置けば良いだけになると思います。そうやって一見違うような2つの学問を合体したいと。」
――京大と比べてKITの学生はいかがですか?
「コツコツやるタイプの学生さんが多いです。数学などが苦手なので実験をやりたいという学生が多いのですけれど、できれば両方バランス良くやってほしいと思います。ただ、京大の学生には絶対にやらせられないという作業もここでは辛抱強くやってくれるのです。
例えば、材料の断面を見るのに0.5mmずつ磨いて、顕微鏡で見て、また磨いて見てというような作業は京大の学生は絶対に嫌がるのです。僕も自分でやるのは嫌なのです(笑)。そのような作業も、"これはこのような意味で必要だ"と説明すると、一応、頑張ってくれるのです。それはとても良いところです。
そうすると、特に丁寧にやる学生は、本人は気づいていなくても、かなり新しい発見につながるような結果を出してくれる学生もいるのです。これが京大だと手を抜かれて終わりだなというところはあります。」
――学生には今後、どんな研究を期待したいですか?
「繰り返し自己修復材料です。壊れても何回でも勝手に治るという夢の材料です。マイクロカプセルに修復材を入れて、使って修復したら、また毛細管のようなネットワークで
補充するといったことを考えています。今はまだ何もやっていませんが、これから学生にも挑戦して欲しいです。」
田中先生は教員録の近況欄に「本質をとらえた研究テーマの設定と、誰にも真似のできないアプローチを通して、地球と人類の存続に貢献したい」と書かれている。視野の広い、素晴らしい「研究宣言」だと思う。
]]>――先生は神奈川県の名門、湘南高校から東京工業大学に進まれました。湘南高は東京大に進む学生が多いと聞いています。東大ではなくあえて東工大を選ばれたのは何か理由が?
「当時はいわゆる文系の科目というか、国語とか社会の覚えないといけない科目は大嫌いでして、東工大は理系科目さえできれば入れたのです。今でも覚えるのは苦手です。コンピュータに覚えて教えてもらったりして、最近はスマホに教えてもらっている感じです」
――東工大では情報工学を専攻されました。きっかけはあったのですか?
「小さい頃はラジオを作ったり、電子工作とかアマチュア無線とかやっていました。そしてワンボードのコンピュータが発売されたりしていました。しかし、買えない。でも、いじりたいので情報工学を選んだ。数学もそこそこ得意だったし。
東工大は当時どちらかというとLSIを開発したりするハード系の方が盛んだったと思います。その中でソフトウエアを一生懸命やりました。
任天堂の社長になられたけど亡くなられた岩田聡氏とは同じクラスで仲良くしていました。彼は高校時代からアルバイトでゲームを作っていました。有名な山内溥さんに拾われて任天堂に移ったと言っていました。
私もその頃ゲーム会社にアルバイトに行っていまして結構いいギャラを頂いていました。当時の思い出としては家庭教師とソフトウエアのバイトで初任給よりもらっていたと思います」
――卒業後、三菱電機に入られます。
「大学にいくつも募集が来ていて、数社見学に行って、いろいろ悩んだのですけれども、僕はそんなに大きなところというか、最先端、大手のコンピュータ会社、ソフトウエア会社でガチガチにやるよりも、2番手ぐらいにいて自由にやれそうなところの方がいいのではないかと。大学の先生にそう言われまして。三菱電機本体はとうとう計算機そのものは作らなくなりました。そのような会社にあえて入ったということです」
――わざとずらして業界の本命ではないとこを狙われた?
「そうですね。ずらしてと言うか、僕の実力にはちょうど良かったということだと思っていますけども。あと、三菱の場所が湘南地方の鎌倉にあったということも一つの大きい理由です。当時、ウィンドサーフィンをやっていたので、鎌倉だと何の苦もなく続けられるというのは大きなポイントの一つです。今の学生さんに向かって"もっと良く考えろ"と言っている割にはつまらない理由ですね(笑)。」
――三菱に入られて最初はどんな仕事をされたのですか?
]]> 「当時は米国のシリコンバレーのサンというベンチャーが製造したワークステーション(WS)が非常に流行った時代でした。WSというのはCADやグラフィックなどに特化した業務用高性能コンピュータです。日本でも電機メーカー各社がWSを手がけ、そのOSの開発を少しやりました。その中で米国AT&Tのベル研で作られたUNIXというOSを知りました。僕はソフトウエア専攻なので大学でも少しはやりましたが、三菱に入って5~6年ずっとOS周りをやっていましたので、ソフトウエアとはこう書くのだとUNIXに教えてもらったと言っても過言ではないと思います。UNIXは今でいうLinuxの原型になっています。
その頃からソフトウエアエンジニアリングという言葉がありましたが、僕は、ソフトウエアはアートだと思っています。だからエンジニアリングできないと思っているのです」
――とするとKITという工業大の中で、ソフトの教え方も違ってくるのでは?
「学生にはやはりソフトが動くというのはどういうことなのか、動いた時の喜びを教えたいと。僕はよく言うのですけれども、形あるものとして部品を少しずつ繋げていって、クルマや飛行機が出来上がった時にはとても嬉しい。それと同じようにソフトウエアも、途中、動かないことがたくさんあるけれども、できて動かすととても嬉しい。途中でうまく行かないことが多いほど後で嬉しい。
それを体験すると、やはりすごく細かい作業が多いのですけれども、喜びのために何をするのかいう習慣がつくので、いろいろなことを教えています」
――なるほど。
「プログラムだけではなくて、学生にはもう少し自分で考えられる人間にというか、技術者になってほしいと思っています。世界はアルゴリズムで動いているとよく言われます。そのアルゴリズム、考え方、それも結構モダンなもの、例えばFacebookやGoogleなどが実際に彼らのシステムの中で使っているようなもののエッセンスだけを教えたりもしています。だけど講義だけではつまらないと思うのでクイズというか、ものの考え方を訓練する課題を出したりします」
――話は前後しますが先生は米国に2回行っておられるのですか?
「はい。最初は社内の留学制度で東部のコーネル大学に行きました。会社に入って7~8年目の頃です。コンピュータサイエンスといえば米国なので。コーネルでは受験勉強の時より勉強しました。米国の学生はみんなこんなに勉強するのだと、自分の自堕落な大学生活を反省しました(笑)。
帰ってきて、またソフトの仕事を続けていましたら、2006年に"ボストン"に行けと言われてMitsubishi Electric Research Labs に4年ぐらい居ました。米国には留学と合わせて約6年いたことになります」
――ちょうどインターネットが盛んになる頃ですね。
「米国に行くちょっと前から、これからはインターネットだと思い慶應大学などの先生たちと共に活動していました。三菱電機に最初にインターネットを入れたのは自分が結構頑張ったと思っています。米国から帰るとワールド・ワイド・ウエッブ(WWW)が流行りだした時ですので家電に展開したりしていました。
やはり三菱から来た伊東健治先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2011/09/post-53.html )は工場で携帯を作っていて、僕は研究所にいてウエッブアクセスのためのソフトを作っていたのです」
今回は残念ながら時間的に余裕がなくなったが、齋藤先生は現在、交通システムの研究をしているという。どのような経緯なのか、改めてまとめて話を伺いたいと思った。
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