2014.10

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

2014年08月 アーカイブ

応用バイオ学科 河原 哲夫 教授 今でこそ、医療にとって工学との連携は当たり前のことだが、河原先生が大学院を出られた約40年前はまだ珍しかった。先生は工学部から医学部の助手になるという当時としては稀な道を先駆者として歩んでこられたという。

----先生は早稲田の応用物理のご出身です、元々は何の研究をされていたのですか?

「光関連の研究室にいたのです。4年の時はホログラフィーをやっていました。昔の卒業研究でホログラフィーを撮ろうとしたのですが、すでに色々な所で使われているので、ただ撮影するだけでは面白くないと思っていました。たまたま眼科の先生から眼底写真というのは暗箱の中を写すのと一緒だから結構難しいのですよという話をうかがったのです。そこで、眼底写真、眼底のホログフィ--を撮影してやろうかと」
 
----ホログラフィーとは簡単に言えば立体写真のことですよね、すると、眼底が立体的に浮き上がって見えるのですか。

 「中の血管の交差状態とかもきれいに見えましたし、1枚の写真で目の奥の眼底と瞳の虹彩、20何ミリ離れていますが、全部写っています。きれいに撮れたと喜んだのですが、それはそれで終わってしまった。解像度は悪かったりして利用が進まなかった」

----それでも、目の研究を続けられた。

 「目のことを調べているうちに、目の機能のほうが面白くなって、それで修士から目の機能を計測したりしました。その頃はファィバーオプティクス、胃カメラなどの出始めでしたので恩師の先生もその方面に興味を持っていました。

 恩師ご自身は目の研究は行わなかったのですが、視覚は重要だということで、私の5年先輩で目を専門にしている人が助手として研究室にいたのです。早稲田は古い大学のせいか、あまり手取り足取りでああせい、こうせいとか言われない研究室でしたので、相談するけれども、実際はみんな自由にまかせてみたいな感じでした」

----それで、早稲田を出て東海大医学部に行かれます。これは珍しいケースですよね。

 「ええ、それは珍しかったですね。ちょうどドクターが終わる頃に、順天堂大学医学部の眼科に有名な先生がいらして、そこでいろいろな装置の計測をしていたのです。その先生に大学に残りたいと相談したところ、東海大学医学部の病院の眼科を紹介していただいたのです。医学部はできたばかりで、眼科の新しい教授もちょっと変わったことをしたかったかもしれないのです。僕自身も面白かったです」

応用物理から目の研究へ進まれた河原先生----東海大医学部で2年半勤め、次は工学部に行かれます。

 「ええ、光学工学科のほうへ異動します。眼科の先生にはここは臨床だから医学部出身でないと上に行けないので、早いうちにどこか探して出てっていいよと言われていました(笑)。ただ、2年くらいは、ここにいてねとも。

 たまたま同じ東海大工学部の光学工学科に早稲田の先輩がいて、ちょうど空いたからおまえ来ないかという話がでて。眼科の先生も同じ東海大なら用ができたら来てもらえるから、それは良いということになったのです」

----光学工学科というのも他の大学に比べてかなり早いですね。