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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

2011年09月 アーカイブ

電子情報通信工学科 伊東 健治 教授 20世紀を代表する技術と言えば、飛行機か自動車だろうが、時代の最先端のテクノロジーが一般人に浸透し広く使われたのはどちらかと問われれば、圧倒的に車のほうに軍配が上がるだろう。その意味で21世紀を代表する技術は携帯電話ということになるかもしれない。80年代後半、筆者は米国特派員時代に生まれて初めて携帯電話を使ったが、公衆電話の受話器をひと周り大きくしたような形で何キロもあるためズシリと重く、よっぽど緊急の時だけ使う特別なシロものだった。それが今や世界中で小学生からお年寄りまで誰でも使う当たり前のモノとなった。

 伊東先生は三菱電機でその携帯電話開発の真っ只中にいらした。

——先生は大学を出られてすぐに三菱電機に入られた?

 「はい。鎌倉にある研究所に15-16年いました。専門はマイクロ波工学の中でもマイクロ波半導体回路という分野で、非常に高い周波数の回路をやっていました。

 1997年から2008年までモバイルターミナル製作所というところで携帯の設計製造を担当しました。多分、累計で2,500万台は生産しています。最後の頃に作った携帯を今でも使ってます。しかし、三菱は携帯をもう作っていません。

——さぞかし忙しかったでしょうね。

 「いやもう、大変な忙しさでした。私もそうですが、いろいろなところから人を集めて。始めた頃で年間2機種、最後は年間5-6機種作っていました。

——どうして日本の携帯は衰退したのですか?

 「ガラパゴスとか言われていますが、今、世界的なシェアがない。三菱でも1999年から2000年にかけて海外生産を随分増やしました。フランスと米アトランタに工場があって。

 ところが、2000年ITバブルが起きました。それで、かなり売れ残りが出たのです。大きな欠損がでて、それから順次すぼめていきました。最盛期で世界シェア大体4%行ったかな。今は日本全体で4%ぐらいですからね。当時、日本で一番大きい携帯メーカーだったのです」

——作り過ぎたということですか?

 「はい。どういうことかと言うと、海外の金融から携帯電話の設備会社に多額の投資マネーが出たのです。それで、その時の回線需要予測が実際よりものすごく高めになってしまって。一種のバブルですね。

 そうすると携帯メーカーにも発注がどんどん出て、4億台もの需要予測が出ました。その前の年が2億5,000万台でした。ところが実際は3億台にいかなかったので世界で1億台以上の携帯がだぶついてしまったのです。この時、全ての携帯電話メーカは深手を負ったのです。当時はアルカテルや、シーメンスも携帯をやっていたのですが、今は影も形もありません。モトローラやエリクソン(当時)も当時のシェアから凋落し見る影もありません。」

——メーカーとして携帯を作る時、一番難しいのは?

環境土木工学科 岸井 徳雄(きしい とくお)教授 2011年9月、台風の影響による集中豪雨の影響で紀伊半島を中心に広い地域で土砂崩れや洪水による大きな被害が出た。東日本大震災以来、地震や津波ばかりにわれわれの注意が集中しがちだが、台風や豪雨はますます巨大化になり被害は大きくなる傾向にある。岸井先生は国の防災科学技術研究所(防災研:http://www.bosai.go.jp/ )で長年、洪水を中心に自然災害防止の研究をしてこられた。

——先生は大学で土木の構造力学を学ばれてすぐ国の防災研に入られたそうですが、かなり珍しいケースなのでは?

 「そうですね。特に理由はないのですが公務員試験を受けたら防災研で人が足りないからということで。防災研は1963年創立で出来たばかりでした。その前の59年に伊勢湾台風という大きな被害を出した台風がありました。当時は堤防では農林省の規格があり、建設省の規格もあるということで省庁バラバラだったのです。それではとても災害を防げないということで科学技術庁(当時)が音頭をとって各省庁共通のものを作ろうということでした。

 ところがいざ出来てみると、省庁の権限争いがすごくて、わが役所の権限を別の組織に移すのはもってのほかと、最初は大変でした。いざ就職したら構造はやらないでいい、水害や洪水の専門家がいないのでぜひそちらをやってくれと頼まれたのです」

——今回の震災の被害の大部分は津波で、先生のご専門は洪水ですが、同じ水の災害という意味では共通していますよね。

 「水災害が専門なので大きな関心を持っています。でも最近はいわゆるハードというか、防波堤や堤防などで災害を防ぐというのは100%無理だということがだんだん分かってきました。今回の震災で“想定外”という言葉が何度も登場しましたが、常に設計を超える外力というか、波の高さや洪水の量が必ず来るのですよ。ですから、100%安全な堤防を造るとなると無限に高いようなものを造ることになり、とても財政的に持たないのです。

 やはりソフト的な情報をいかに早く住民に知らせるとか、いかに避難を早くするなどが重要なのです。日頃住んでいる土地をいかに安全にするかなど、そういうソフトと兼ね合わせないと、堤防なら堤防で造れば良いという時代はもう過ぎているのです」

——何時頃から、そのような考えが出てきたのですか?

 「20~30年前からでしょうか。だんだんソフト重視の傾向が強くなってきたのです。構造物でもって自然と対峙するのは限りがあるといいますか、防ぎきれないということです。ただ、一般の住民というのは堤防なら高ければ高いほど、安心といいますか、もう大丈夫だろうと思ってしまうのです。今まで堤防の近くには住まなかったのですが、やはり安心だと思って家を建てたりしてしまいます。

 堤防といっても土でできていますし、100%安全ではないのですから、時たま崩れることだってあるのです」

「ハードで対応するのは限りがある」と岸井教授——先生は堤防をより頑丈にする研究をしているのではないのですか?

 「私はどちらかというと、大雨が降った時にどれだけの量の水が下流に出てくるかということを、モデルを使って予測しているのです」

——というと、上流で急に大雨が降って下流のキャンパーが流される事故などの対策も含まれるのですか?