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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

建築デザイン学科 の最近のブログ記事

建築デザイン学科 中森 勉 教授 KITの建築関連学科はあまり一般には知られていないが、建築の歴史(建築史)の調査、研究体制が充実している。今までこのインタビューでも後藤正美先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2009/10/post-18.html )や山崎幹泰先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2010/11/post-40.html )らを紹介してきた。大学に於ける建築史の充実ぶりは北陸一で先生方は石川県だけでなく富山県や福井県からも声がかかり調査に訪れている。その先がけの一人が中森教授だ。 

——中森先生はKITを出られて、博士課程の時に助手になって以来、ずっとここにいらっしゃるのですね? 最初から建築史を研究されていたのですか?

 「KITは30数年になります。私はもともと設計が専門だったのです。恩師は田中光先生という方でした。あるきっかけで歴史も学ばねばと建築史の竺 覚暁(ちく・かくぎょう)先生のところに週一回通い出したのです。その後、研究のほうは建築史を専門にして、たまに田中先生を手伝ったりしながらやってきました。

——先生はレンガ造りの石川県立歴史博物館http://www.pref.ishikawa.jp/muse/rekihaku/の設立に係ってきたそうですね。

 「田中先生から本多の森公園にある旧陸軍の赤煉瓦建築3棟の調査や現場監督をしてくれと頼まれたのです。

 あの建築は兵器庫でした。兵器庫というと一般の人は機関銃など重火器を想像されるでしょうが、まだ明治の終わりから大正の初めですので、基本的には新兵の携帯するようなライフル銃なのです。拳銃はありません。軍服とか蚊帳(かや)とか、そういったものがずっと保管されていて。基本的に軽いものは2階で、下は石敷の土間で、荷車に載ったような小さな大砲がありました。弾の直径によって何ミリ砲とか書かれていました。

 出来たのは日清戦争が終わって直ぐでした。戦争ですから、兵隊を全国から集めたので解散するのはもったいないと、ついでに師団(軍隊の部隊単位の一つ)を作ってそのまま金沢に常駐させようと」

——そのような新しい師団はあちこちに出来たのですか?

 「金沢は第9師団ですが、新しくできたのが全国に6つぐらい。例えば四国の善通寺市とか。兵器庫の基本設計は東京の陸軍省でやります。基本図面ができたら、それを各師団の設計組織に渡して、その地域に適した要求の規模で造りなさいと。ですから、同じなのですが、微妙に規模や長さが違ったりするのです」

——きちんと残っているのは金沢だけですか?

 「善通寺にも残っています。自衛隊で使っています。ある意味では負の遺産なので大々的に宣伝するわけでもないのであまり知られていませんが、貴重な建築であることにかわりはないです」

——兵器庫を博物館にするには苦労されたのでは?内部は設計し直しですよね。

 「リニューアルは設計事務所にまかせて博物館のプランニングはしているのですが、基本的には重要文化財として文化庁に認めてもらわなくてはいけないので、外観と一部内部を昔通り再現しなければならないのです。

 どこまでオリジナルを残すか、消えている部分があったら、それを復元しなければならない。こうした作業を僕が担当したのです」

——それは忙しそうです。

建築デザイン学科 円満 隆平(えんまん りゅうへい)教授 東京駅がリニューアルし話題となり多くの観光客を集めている。一方、全国の住宅地には使われることのない「空き家」が増加し大きな社会問題となっている。古い建築をどう現代に蘇らせるかは建築界では今、一番ホットな課題と言っても良い。円満先生は長い間、大手のゼネコン清水建設でこの問題に取り組んで来た。

——清水建設ではどんなお仕事をなさってきたのですか?

 「初期は土地の活用です。バブルのころですから遊休地や工場を移転した後の土地利用や、ショッピングセンターや住宅団地などの基本設計まで手がけていました。

 土地の有効活用という話はバブルのころはいっぱいあったのですけれど、バブルがはじけるともう全然なくなって、仕方ないので既存の中古建物の有効活用をしていました。

 会社としても新築が減り、改修・修繕工事がこれから増えるので、そちらに力を入れていこうということがありました。建物の診断をして、あとどのくらい持つのだろうかとか、壊して建て替えたほうが良いのか改修したほうが良いのかとか。あるいは用途変更したほうが良いのか。コンバージョンという言葉を聞いたことがあると思いますが、建物をこれからどうしたら良いのかということを技術的にまとめて、お客様に分かり易く説明するという仕事をやっていました」

 コンバージョンとは英語で「 conversion 」。元々は「変換」とか「転換」と言う意味で、建築用語では既存のオフィスビルや倉庫を住宅や商業施設に変えることだ。どちらかというと石造建築が多い欧米のほうが盛んで、有名な例では駅舎からミュージアムになったパリのオルセー美術館などがある。

——30年以上前、倉敷アイビースクエア(岡山県倉敷市)というホテルに泊まったことがあります。そこは明治時代に建てられたレンガ作りの紡績工場を1973年に改修してホテルや商業施設にしたものと聞いています。あれなどは日本でのコンバージョンの走りですかね。

 「そうですね。当時、建物はもてはやされたけども、まだあの頃は高度成長で、新築が当たり前で、なぜあのようなことをするのかという時代でした。確かに先見の明があって、去年もおととしも泊まりましたが立派な所ですね。

 バブルがはじけた90年代中頃から、これからは新築ではなく既存の建物の時代、改修・修繕の時代というふうになって、そっちを強化するということで、土地活用の舞台から建物有効活用の部署に移ったのです。

——コンバージョンなど具体的に携われたお仕事の中で何か思い出が多い例はありますか?

 「コンバージョン自身は実はなかなか難しい。私が営業で仕掛けたのですが、コンバージョンをなし遂げたという例はないのですよ。

 簡単な例でオフィスビルをマンションに変更しようとします。そうすると、例えば各戸にお風呂を付けなければいけない。浴槽は結構重いのです。床はそれに耐えなければならないから場合によっては補強する必要が出てくる。それから上の階の振動・騒音は日中気にならないのですが、夜になると気になるのです。住宅だとそれも考慮しなければならない。そういうことがなかなか難しく、結局、コンバージョン自体を会社の仕事として成し遂げたことはないのです」

——金沢市内のホテルを再生したことがあるそうですが?

建築デザイン学科 谷 明彦 教授 東日本大震災の報道で何度も登場した研究者の一人に片田敏孝・群馬大学教授がいる。片田教授は釜石市の小中学生に型通りではなく自分で状況を判断し避難する方法を教え、何人もの命を救った人だ。

 一方、今回登場の谷先生はゼネコンの清水建設で海外の大型プロジェクトを手がけてきた経験のある都市計画の専門家。驚いたことに、谷先生は以前から片田教授と“考え方を共有”し繫がりがあるという。意外な繫がりの背景をうかがった。

——先生の研究室は徹底した実務派と聞いています。

 「私はもともと学者になろうとずっと思ってきた人間ではないので、今更、学者、学者した学者になる気はないのです。より実践的なことをするのが私の強みと思っていますので、自分の仕事も象牙の塔みたいなものは一切しないつもりです。ですから、研究をするにしても、それがどう社会に生きるかということを常に前提としています。

 よくある学生のお調べごとのよう研究はやっても無駄だと。今、うちの研究室では安全マップを作っていますが、これはある小学校から依頼されてやっているわけです。学生も小学校のPTAの会に出て行って一緒に議論します。調査をするときにも学校の父兄とか子どもと一緒に調査してすべて実践的にやってます」

——それはユニークですね。

 「こういうことをやっている人は少ないです。ただ注意しなければならないこともあります。防災とかまちづくりというとにわか専門家が多くて。

 例えば今回のような地震とか水害とかがあると、すぐハード屋さんが出てきてもっと堤防を高くしましょうと、そういう仕事の話に持っていてしまうのです。実際は違うだろうと。今回の津波でも堤防は一定までの役割しかしないのです。その後はやはりソフトで守っていかないといけない」

——ソフトというと、やはり効果的な避難訓練とかですか?

 「そうですね。まず避難教育をしっかりするということです。群馬大の片田さんはテレビに何回も出てきていてご存知のかたも多いでしょう。片田さんは釜石市の防災計画もやっていて、要するにどこに避難しなさいという教え方ではなくて、こういう場合にはこういう行動をとりなさいという教育をしてきたのですよ。

 だから、本来、避難する場所に避難したら助からなかったのに、引率の先生が機転を利かして、もう一段上のところに逃げたので助かったのです。あれはやはり片田さんならではの教えです。実は片田さんは私と同じような考えをもっている方で個人的にも知っているのです。

 教育とかプログラムとかが本当は一番大事なのですが、それよりも防潮堤や堤防にお金がポンとついて、そっちの学者の方が幅を利かせているというのが現実ですね」

——日本はどうしてもソフトよりハードが優先される。

建築デザイン学科 山崎 幹泰(やまざき みきひろ)准教授 2010年は710年に奈良の都「平城京」が誕生して1300年ということで、奈良では数多くの式典や記念展覧会が行われた。奈良を代表する建築といえば東大寺の大仏殿だろう。その大仏殿に鉄骨が使われていることをご存知だろうか?山崎先生は早稲田大学時代にその事実を発見して修士論文にしたという。

——どうして建築史を研究することになったのですか?

 「高校時代、ものを作ることが好きで大学は理系を目指していたのですが歴史も好きでした。いろいろな大学のパンフレットを見ていたら建築学科だけに歴史の課目があることに気がつきました。例のテレビに良く出てくる考古学の先生がいるから、早稲田に行けば海外でいろいろな発掘の調査に行けるかもしれないというくらいの感覚でした。

 でも、いざ入学したらエジプトの調査は終わってました。替わってカンボジアやベトナムの遺跡の調査が始まっていましたが、私は結局かかわらずに、研究室が出張している間に日本で留守番して、日本建築をやるようになってました」

——日本建築の中でもどの分野を?

 「大学院で研究を始めた時は文化財保存について興味がありました。将来は社寺建築の修理などをしようかと思ってました。そのうち社寺建築の歴史に興味を持ち出したのです。社寺建築といっても、奈良や鎌倉ではなく、ずっと新しいところです。明治以降のお寺や神社というのはあまり研究されていなかったので」

——それは良いところに目を付けました。

 「明治以降は新しくて価値がないと思われていたのです。それで修士論文のテーマとして東大寺の大仏殿で明治時代に行われた大規模な修理について調べ出しました。すると、その修理は鉄骨を使った、当時としてはものすごく変わった例であることがわかりました。その時の図面とか史料も見つけることができて論文としてまとめることができたのです。修論としては頑張ったと評価されまして、本格的な研究の道に入っていくことになりました」

——その史料はどこにあったのですか?

 「東大寺は一部門として東大寺図書館という図書館を独自に持っていて一般にも開放しているのです。ただ、そこでも皆さん古いところは一生懸命調べていますが近代以降の史料はあまり調べられていません。そこを調べたら、たまたま見つけたのです。
 
 当時はいろいろな計画案があって、やはり大きな建築ですので、それをどのように修理しようかということをいろいろ検討したらしいのです。最初は和風の案と洋風の案とがあったのですが検討した結果、両方とも不採用にしました。さらに検討した結果、中に鉄骨のトラスを組んで、それを外からは見えなくするという案になったのです。
 
 論文を書いたときにはもちろん見る機会はなかったのですが、後で見る機会があって大仏殿の屋根裏に上がらせていただきました。大きな空間に鉄の橋みたいのが架かっていて感動しました」

学生を連れ町中を走り回る

——まさか、そんな“鉄の橋”が大仏様の上に架かっているとは思いませんよね。それで研究の面白さに目覚めたわけですね。

建築デザイン学科 宮下 智裕 准教授 アルミ二ウムを使った究極のエコハウスを創ったり、指導した院生がエコ建築コンペでグランプリを取るなど活躍が目覚ましい宮下先生。今、KITでも最も元気な先生の中の一人だ。

――どうして建築に進もうと思ったのですか?

 「いきなり難しい質問ですね。昔からものづくりが好きだったということがあります。空間自体を作ることが好きで、それをずっとやりたかったということでしょうか。

 例えば洋服とかは、比較的短くて終わってしまうでしょう。それに対して建築はかなり長く残る。身の回りの物のデザインをしていくのに、建築とか住宅というのはすごく身近で、しかも長く残るという意味で、素敵な仕事かなと」

――なるほど、でも最近は建築もすぐ壊されて長く残らないようになっていませんか?

 「そうです。実はその問題にも挑戦していて、RDA(Re-Design Apartment Project)というプロジェクトをやっています。これはどんなものかというと、KITの指定寮の多くが25年近くたっているのです。建てられてから古いものが多くて問題も出てきています。こうした木造のアパートを学生と一緒にリノベーション(改修)しようとしています。
 
 去年2棟、2部屋立ち上げて,新しく直しました。学生がどういうところに住みたいか、何を求めているかをきちっとリサーチし、単に新しいというだけではない価値というのを考えます。それを学生がデザインし、自ら家賃を払って住むというプロジェクトです。そうすると、町自体が、ある意味、学生が自分たちでデザインした町になっていって、一つの特徴にもなるのです。そして、これは環境でいうところの超寿命化で、立派な環境問題への対策にもなるのです」

――環境がご自身のデザインのキーワードですか?

 「建築の分野でいうと、構造の人は構造に特化していかないとなかなか専門性は得られない。けれども実際は構造だけあっても意味がない。材料は材料ですごく進んでいるけど材料だけあっても、ものは建たない。それぞれの分野の良さを引き出して一つの形にデザインしていくことが重要なのです。言ってしまうとプロデュースに近いのです。

 そして、その源は何かと考えた時に、今、おそらく一番の拠り所は環境だろうと。環境を考えないデザインというのは、これからはあり得ない。構造も設備も材料も、それを合わせたデザインも、環境という一つの大きなフィールドの中で、それぞれがどうあるべきかを考えて建築を創っていくというのが私の研究室のテーマなのです」

――その流れの中にアルミニウムのエコ住宅もあるわけですね。

 「昨年、金沢市に完成した住宅は私の研究室と建築家の山下保博さん、約20の企業が参加したプロジェクトです。国交省の省CO2推進モデル事業の第一回に採択していただきました。この家は私の自宅でもあり、全くの実験住宅なのです。
 
 アルミ造という、アルミで建っている建物は全国でもう10棟くらいあります。だからアルミで建てるだけでは意味がない。では何をやっているかというと、アルミの構造体自体は熱伝導率が良いので、これを冷暖房に使っています。壁と天井自体が暖かくなったり、冷たくなったりするのです。なのでこの家はエアコンが一切ない」

自宅でもあり実験住宅でもあるアルミハウス――暖房は熱水を通すのですか?

 建築デザイン学科 下川 雄一 准教授 建築・都市の分野でもデジタル化が進んでいる。この分野、以前はコンピュータで図面を書くCAD(computer aided design)ぐらいしかなかったがデジタル化はより広く、深く浸透している。その最前線にある技術の一つがBIM(building information modeling)だ。下川先生は目下、このBIMの研究に取り組んでいる。

――もともとはCADの研究をしていたのですか?

 「はい、学部4年、修士、ドクターとCADの開発をしていました。まだ、CADが出始めの頃でしたが、このソフトはいわゆる汎用で何にでも使えますよということで機械系の人も使ってました。線を引くとか基本立体を作るという単純なことしかできなくて不便で、それをもっと建築設計者が使いやすくできないかということをやっていたのです。

 僕は建築設計は専門ではなく、そういうツールの活用法とか、新しいツールを開発したり、それによって新しい建築を実現させるプロセスに関心があるのです」

――建築CAD学のようなものはまだないのですか?

 「建築学会の中に情報システム技術委員会というのがありますが、人数的にはそれほどではありません。

 これも難しくて構造計算のためのツール開発ですと、構造系の人がそこに半分、足を突っ込んだり、デザインをやっている人がそこに半分,入ってみたりしています。逆に情報システム技術部門でどっぷりやっている人というのは構造なのか計画なのかはっきりしないという部分もあるのです」

――先生が現在、研究中のBIMはCADとはどう違うのですか?

 「今、建築業界の中でもほぼ100%、CADを使ってますが、ほとんど2次元CADなのです。昔の設計図をコンピューターに入れただけの話で、ある意味まだアナログ的な世界なのです。その情報が劣化しないとか再利用が楽だという点では便利ですが。

 本来、3次元の立体である建築を3次元記述しないまま、平面図、立面図、断面図といろいろな見方の図面を書いているわけですが、ひょっとしたら矛盾が生じている可能性がわるわけです。事実,現場ではそれによって非効率な部分が結構でてきているわけです」

――BIMはそれを立体化するわけですか?

建築デザイン学科 川崎 寧史(カワサキ・ヤスシ)准教授 金沢市の中心市街地に「あかり」のオブジェを展示し、幻想的に演出するKITの「月見光路(こうろ)プロジェクト」が、日本産業デザイン振興会の2009年度グッドデザイン賞を受賞した。空洞化が進む市街地の活性化を目指し、学生たちが地元商店街と連携して2004年度から続けられてきた。このプロジェクトを指導してきたのが川崎准教授だ。

――学生たちのグッドデザイン賞受賞は快挙でした。

 「この賞はどちらかというと工業デザインというイメージがありますよね。でも、まちづくりのような活動も視野に入れておられるという事だし、活動も6年目に入ったので応募しました。

 その時、デザイナーを学生にしたのです。普通、デザイナーというと主導的な立場の個人名が出るのです。KITグループは建築科の学生が主。地元、教職員はどちらかというとディレクターという形で。デザイン対象は金沢の街というキャッチフレーズで行きましょうと。なかなか、そういう応募はないですから。」

――その狙いが見事、的中した。

 「グッドデザイン賞と言う全国的にも有名な賞をいただいたということで、月見光路をずっと応援していただいた金沢市中心地区の人たちも喜んでくれました。地域と大学が協力して行ったことがデザイン的に評価されたということですから。それもOBを含めてです。学生もやはりこの活動に参加して非常に良かったと思うでしょう。

 他市に就職した学生たちも、毎年は無理なのですが、月見光路の頃の9月には金沢に帰って来たいと良く言います。そういうことも含めて、今非常にうまく回っていると思います。金沢の街にもう一度戻ってきて楽しみたいという人を増やしているということです」

学生達が作製し、展示された作品 川崎准教授は2001年にKITに来る前は大阪大学工学部助手、京都大学大学院助手、米ハーバード大客員研究員などを務め、主に大学を活動の拠点としで設計、研究活動を行ってきた。

――先生は特にどんな分野の建築を手がけられたのですか?

 「ずっと大学にいまして、福井県立大学の小浜キャンパスの基本設計とか、そのような建築設計プロジェクトにいわゆる大学のスタッフとしてずっと参加していました。また、同時に京都の地下鉄の駅舎のデザインとか、阪大の環境工学のときには兵庫県淡路島の浮き桟橋の設計とかもやりました。

 私はどちらというと、環境工学で建築単体というよりも環境と建築の間の設計というような感じです」

――設計にコンピュータグラフィックス(CG)を使った草分けと聞いていますが。

建築デザイン学科 増田 達男 教授 このブログ形式によるインタビュー連載を始めて1年近くなった。KITの多くの先生方が地域の特色を意識して研究・開発をすすめていることに感銘を受けた。その中で増田先生は都市・金沢そのものに焦点をあてている点が特徴的である。

――都市を研究するにもさまざまな切り口がありますが・・

 「われわれは都市というと、どうしても繁華街を第一に思い浮かべますが、ほとんどは住宅地なのです。都市といえども住宅に住んでいる人たちがビジネス街や商店街の周辺に集まり住んで市街地が形成されています。また、郊外の住宅地から中心市街地へ通勤したりショッピングに出かけたりしているわけですから、圧倒的に多いのは住宅なのです。

 その住宅をどう快適に住みやすくするかということが大切です。われわれの研究では一つ一つの住宅の設計ではなく住宅規模とか建築密度とかが関わってきます。あとは環境、住環境ですね。例えば道が歩きやすいとか、町並が美しいとか」

――要するに集合としての住宅なのですか?

 「そうです。住宅の集合体といいますか、そこに都市との密接な関わりが生じてきます。でもやはり、金沢で面白いのは歴史ですね。伝統のある土地柄なので。研究テーマとしては金沢における都市型住宅の歴史的変遷を追っています」

――金沢の都市住宅はどのような特徴があるのですか?

 「一つには城下町ですから、武家屋敷の伝統をひいているということです。京都は公家の文化はあっても武家の文化ではなく、むしろ京都の代表的住宅は町家です。他の古い街、萩や松江といった城下町でもほとんど残っていないでしょう。金沢も決して武家屋敷が多く残っているわけではないのですが、空襲にも合わず歴史が途絶えませんでしたから。日本の中でこれだけの城下町が残っているのは金沢だけですので。研究材料というかデータに恵まれているということはありました。

都市・金澤の魅力を語る増田教授 でも、厳密に言うと武家屋敷は都市型住宅とは言えないのです。大きくて豪華な邸宅でしたから。ただ、それをコンパクトにした下級武士の足軽屋敷がありました。下級武士系の伝統が明治以降受け継がれるのですが、維新以降、武家が没落しますから、明治の初めはしばらく都市としての金沢は沈滞します」

――士族は食べていくのにも苦労するわけですね。

  建築デザイン学科 蜂谷 俊雄 教授 このブログ形式のインタビュー、KITの研究者をウエッブで幅広く紹介していくのが狙いだ。しかし、蜂谷(ハチヤ)教授には開口一番、こう言われてしまった。

 「研究紹介ということですが、私は研究者では決してないと思ってます。一度も自分を研究者だと思ったことはないですね」

――デザイナーだと、研究者とは違いますね。

 「自分は社会へ出てからいろいろな建築を作ってきた。その建築のデザインをする熱い気持ちとか技術を、今のKITの学生さんに伝えて教えてあげたいなと。また、大学院に進んだ学生には、私はかって国際コンペを取っているのですが、そういうノウハウを含めて教えてあげたいなという気持ちできているわけで。工大へ来て何か研究してますかと言われると・・・」

 理系大学の中で建築デザインという分野は明らかに化学や機械等の他学科とは異なっている。今まで、このブログで紹介してきた工大の他の先生方は、自分が「研究者」と呼ばれることに違和感を唱える人はいないだろう。建築の中でも構造や設備は他の工学分野とほとんど同じだが、デザインは「美しさ」というか「芸術性」というか、実験や理論だけでは片付かない何かを抱え、「作品」がすべてだからだ。こちらも、つい「大学の先生=研究者」と思い勝ちだが、確かに実作者である建築家を研究者と呼ぶのは無理があるのかも知れない。となると、単にデザイン活動だけしているところを「~研究室」と呼ぶのも本来はおかしいのだが・・・。

 蜂谷教授は大学院修了後、日本を代表する建築家・槇文彦氏の設計事務所に勤務した。槇氏の有名な作品としては「代官山ヒルサイド・テラス」、「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」や「テレビ朝日」などがある。槇事務所にいた20年以上の間で蜂谷教授が関わったプロジェクトは京都国立近代美術館や福井県立図書館など多数ある。