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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

経営情報学科 の最近のブログ記事

経営情報学科 熊井 泰明(くまい やすあき) 教授 熊井先生は金融のプロで、しかも世界経済の中心のニュ—ヨークで6年間もアナリストとして働いた経験を持つ。「世界が音を立てて変化している」ことを感じ、その熱気を学生と共有したいと言う。

——先生は横浜市立大学文理学部のご出身で、卒業後、JETRO(ジェトロ、日本貿易振興機構)に就職されました。ジェトロは経済産業省所管の独立行政法人で、日本の貿易の振興に関する事業、開発途上国・地域に関する研究など幅広く実施しているところです。ジェトロを志望された理由は?

 「大学では外交官に進む連中も結構いましたし、国際関係論なども盛んだったものですから。やはり海外に出たかったということもありました。それなら、海外に行けるところが良いだろうということで。11年間勤めました。」

——ジェトロから米国に留学されたのですか?

 「はい。入社3年目で行って来いと。それまでジェトロでは基本的に研修は海外の特殊語、タイ語やインドネシア語などの語学研修が中心でした。私の時からそうではなくて、もっと基本的な学問を修めて来いという制度になりました。

 それで、自分で分厚い資料を見ながら、いろいろ調べて米国・イリノイ大学に行くことになりました。実はどんな大学だか行くまで良く分からなかったのです。当時はまだ日本がものすごく注目されていましたので、日本から“行きたい”というと、“では、来て見たら”という学校も結構あったのです。とてもラッキーでした。」

——イリノイ大というとイリノイ州で一番の大都会シカゴにあるのですか?

 「ちょっと離れています。シカゴから南の方へ150kmほど南にあるアーバナ・シャンペーンという町にあります。日本ではアイビーリーグのハーバード大やイエール大ほど有名ではありませんが、公立の名門校でノーベル賞受賞者を11人も出しています。」

 イリノイ大学はコンピューターの開発史上でも重要な位置を占め、古くは並列コンピューターの先駆けとなったILLIAC(イリアック)が有名。また学内に米国立のスパコン研究所(NCSA)があり、インターネットが一般に普及するきっかけとなった元祖ブラウザー、Mosaicはここで開発された。

——イリノイ大では何を勉強されたのですか?

 「計量経済学です。経済のいろいろなデータを使って経済の構造を分析して予測するという作業をずっとしていました。

 要するにここに100円を入れたら一体幾らになって返ってくるのか。あるいは政府が100円使ったら経済はどれくらい大きくなるのだろうということを数字で表していくのが一つの流れです。それと、そのような経済的なシステムをブラックボックスとしてとらえ、その仕組みを明らかにするというような研究が中心でした。

 いきなりコンピューターを渡されて、無我夢中で死ぬほど勉強しましたね。」

——いったん米国からジェトロに戻られて、87年に勧角証券(現みずほ証券)に転職され金融アナリストに従事されます。

経営情報学科 武市 祥司 教授 武市先生はもともと造船工学の出身。しかし、コンピューターを使いこなしているうちにより総合的な社会システム工学やサービス科学といった、より広い世界を目指すようになったという。その背景をうかがった。
 
——先生は東大の船舶海洋工学科のご出身ですが、やはり海へのあこがれが進学された理由ですか?

 「いや、実は建築志望だったのです。東大の内部で学科を決める時に進めなくて。たまたまクラブ活動の先生が船の先生で第二志望として決まったのです。

 でもいざ進んでみると面白かった。25年近く前ですが、コンピューターを使って、いろいろな設計支援、生産支援をやり始めようということが、さまざまな産業で起きてきて造船でもあったのです。というのは船の場合は、第一次オイルショックから非常に不景気で、それが15年ぐらい続きました。このままでは駄目になる、新しいことをやろうというので業界がコンピューターに目をつけたのです。 

 入った研究室は溶接という金属同士をくっつける技術を研究するとこで、業界、学界全体でやっているのも興味を引きました。それで、マスターまで行き、造船会社に就職するつもりで半分ぐらいまで決まりかけていたのですが、多分、人が足りなかったのでしょう。先生がドクターに来ないかと言うので行きました」

——人が足りないとはご謙遜で、武市先生が優秀だったのでしょう。

 「ドクターまでいて、それから別の研究室で助手をつとめ、住友重機という会社に3年ちょっと働きました。そしたら東大でたまたまポストが空いたので戻って来いと声をかけられ、助手として戻ったのです。ただ、このポストは一時的なものでしたので縁あって09年からKITに来たのです。

  実はドクターを取るまでの研究室と、助手をやっていた研究室と、さらに助教授になった研究室が全部、別の研究室なのです。最初は溶接でしたが、助教授をやっていたのは流体関係の研究室でした。10年近く前にアメリカズカップというヨットのF1がありましたが、最後はテクニカルディレクターをやっていた宮田秀明先生の下で研究開発をしていました」

 アメリカズカップは1851年から現在まで続く、世界最高のヨットレースで、参加国の最先端技術のすべてが注ぎ込まれる。日本は1992、1995、2000年の3回、チャレンジしているが優勝はない。以前、インタビューした増山豊先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2010/01/post-23.html )もアメリカズカップに関係していらして、武市先生がKITに来られる「縁」となった。

——話が前後してすみません。造船で住友重機というのは申し訳ありませんがあまり聞いたことがないです。住友重機は三菱重工、石川島播磨などに続いて3番目ぐらいですか?

 「いえ、もっと小さいです。ただ歴史があって幕末に幕府が設立した浦賀造船所を、榎本武揚らが明治時代になって浦賀船渠という会社組織にしたのです。私が入社した時にすぐ創立100周年だったので、今は115年くらい。幕府の時代を入れるとさらに40~50年もさかのぼれるらしいです。住友系の機械の会社と合併したりしていますが、実はあまり大きくなくて、20年くらい前、造船大手7社と言われた時代で7番目くらい。大手というより中手のトップぐらい。」

「造船業は大手より中手が元気」と武市先生——なるほど、それであまりうかがったことがないんだ。

 「造船業は今いろいろ再編していて大手よりも中手の方が元気いいのです。大手よりも中手の方が建造量の多いところも何社かあるのです。

 なぜかというと、船の産業は労働集約型なので、人件費がダイレクトに効いてくるのです。船というのは大きく分けると3種類あります。第1に艦艇とよばれる軍艦はアメリカが今でも1番です。第2の客船など付加価値の高い物はヨーロッパが1番。客船は動くホテルといわれ、中の豪華な調度品は他の国では作れない。

 そして第3は鉄鉱石や穀物など荷物を運ぶ船です。日本、中国、韓国が得意なのはこの分野の安い船なのです。昔の数字ですが船の売値の3割から5割が人件費なのです。だから、韓国の人件費が上がったといっても、まだ日本の半分より少し上くらいですし、中国では場所によって違いますがざっと10分の1くらいです」

——それでは日本はかなわないですね。

経営情報学科 鈴木 康允(すずき やすみつ)教授 鈴木教授はKITに迎えられる前、長年にわたってトヨタ自動車で環境研究や幅広い視点にたった環境対策に携わってきた。現在、リコール問題等で苦境に立たされている感があるトヨタだが、鈴木教授からうかがった同社の表には出てこない周到な気配りと長期的な戦略がある限り、この苦境も遅かれ早かれ乗り越えていくのではないかという気がする。

――大学で地球化学を学ばれて自動車会社というのも珍しいのでは。

 「配属されたのは、材料技術部というところです。材料を研究するのかと思っていたら分析をやるところに配属されました。製品環境ということで材料の分析はせずに環境の分析、自動車の排ガスだったり大気環境の分析をやりました。その他、車外騒音や新しい燃料、フロン対策などが全て、製品の環境分野の中に入ってくるのです。その開発推進みたいなことです。

 早く言えば、規制がどういう動きになるか、それを予測して開発をどのくらいの速度でやらなければならないのか。開発をうまく進めるためには、どういう体制というか、人や組織が必要かとか。そういうことをちゃんと準備して企画・推進する部署でした」

――すいぶんと先を見て対処していく会社ですね。

 「結局、公害が騒がれ始めた頃は、どちらかというと企業は国や自治体から"対策をやらされた感"が強いのです。

 工業地帯では町を歩くと、ワイシャツが汚染された空気で真っ黒になると言われました。私たち一般市民は被害者ですけど、大気をもっときれいにしなければいけないということで、規制がどんどん強化され企業はそれに対応したわけです。おかげで今はどこも空気がきれいになりました。この時期は企業はやらされ感が強かったのです。

 ところが、ある時からトヨタはがらっと変わったのです。環境のいろいろな規制来れば来るほど、これは全部ビジネスチャンスだという考えに変わったのです。

 そのような対策をしないともうやっていけないぞ。人、モノ、資金をそのために相当注ぎこんでいきました。そのような先を読んだ対応をしていった結果として、今日のトヨタがあるわけです」

――先生はトヨタで全般的な環境問題を扱っていたのですか?

経営情報学科 加藤 鴻介 教授 パリッとしたスーツの着こなし方、立て板に水の弁舌――。東京・丸の内あたりをさっそうと歩いている商社マンの雰囲気である。それもそのはず加藤教授はつい3年前までIBMで第一線のコンサルタント組織を率いるパートナーを務めていた。世界を相手にしている百戦錬磨の先進企業ビジネスマンたちを説得するにはそれなりの「見た目」も必要なのだろう。

 加藤教授がIBM時代に駆使していたのがナレッジマネジメント(knowledge management, 知識管理または知識経営、以下KMと略)という経営手法だという。

――KMとはどのような考えなのですか?

 「一口で言えば企業の知識、組織の知識をいかに組織として活用するかということなのです。

 人間というのは知識が頭の中にありますよね。大半が頭の中ですよね。あの人は仕事ができても、この人はできないというのはその人の知識によります。でも個人の頭の中にあることは他人には分からない。

 仕事ではベテランは分かっても新人は分からないことがあります。分からないと失敗したり、遅かったり、無駄をしたりと、要するに経営にとって非効率な面がたくさん出てくるわけです。そういうことをできるだけ少なくしましょう、最小化しましょうというのがKMの一つの考え方です。

 その中で、会社の中に今あるものはどこかにおいて使えるようにしましょうという知識共有という観点です。知識共有を進めていくと個人が接することのできる範囲が飛躍的に広がるのです。さらに個人の能力も高まり、今まで3年かからないと一人前になれなかったのが半年でなれたといった事例もあります。」

――具体例を教えていただけますか?