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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

電気電子工学科 の最近のブログ記事

電気電子工学科 柳橋 秀幸 講師 筆者の子供の頃はキノコといえば、シイタケ、マツタケ、ナメコぐらいしかなかった。最近はマイタケ、エリンギ、エノキタケなど実に種類が増えてきた。KITではこのキノコ類を工学的に分析するユニークな研究が2代にわたって続けられている。

――柳橋先生は平間淳司先生http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2011/11/post-55.htmlのお弟子で、電気電子工学科でキノコの研究をされていますが、平間先生の研究のどこに惹かれたのですか?

 「学部4年生の卒論を選ぶときの研究室紹介で、圧倒的に一番行きたいと思いました。何といっても"世界で恐らく自分のところだけ。他にはこんな研究をしているところはありません"という断言が魅力的でした。先生の考え方は、工学で植物の電気信号を測るのだけれども、それはあくまで生き物相手である。生体を相手にしようというのが斬新だった。やはり、研究するには他人がやっていないことをやりたいですから」

――エレクトロニクスの方法で植物と対話するというのは昔からあるような気がするのですが。

 「最近はよく聞くようになってきたのですけれど、平間先生が研究され始めた20数年前というのは、その概念はあったのですが、ほとんどが植物の食べる部分の色や形のデータをパソコンに取り込んでデジタルデータとして処理しようというものでした。

 植物の生体電気、生体電位という信号を捉えるという研究はわずか。特にキノコ類では皆無でした。」

――それで、研究しながら教育もしたいと。

 「はい、自分が学生の時から職業としては教員が良いと。大学もしくは高専の教員としての職業に就きたかったのです。将来を考えた時に、研究はある程度やって成果をあげるには他と同じことをやっていては仕方がないと。誰もやっていない研究というのは何をやっても成果を上げやすいのではと」

――なるほど、若いのにそこまで考えてた。

 「それと、もともと趣味で植物を育だてたり、魚を飼うなど生き物が好きだったのです。これはちょうどいいなというのがあって。電気工学を研究しながら生き物と関わり会えるのですから。キノコはそれほど関心がありませんでしたが生き物に変わりはありません。

 平間先生のもとで、誰もやらないことをやろう、いろいろなことをすれば成果も上がるだろうと」

――教員録の先生の研究を見ると。"マイクロ水力発電"というのもありますが

 「これは小川など小さな水の流れでも発電できるようなシステム作りの研究です。私はKIT併設校の高専の出身で、高専時代は電力システムに興味を持っていて電力の勉強ばかりしていたのです。研究室が決まるまでは、大学でも電力系の科目はたくさん履修していていました。ですから、今でも教員の担当が決まらない科目があると"大丈夫です"と引き受けてしまうのです(笑)」

――具体的にはどんなキノコを使うのですか?

電気電子工学科 河野 昭彦 准教授 河野先生は今までに3回、研究分野を大きく変えているという。最初は酸化物、次は高分子材料、そして今は電池。新しい分野に入っていく時には勇気がいるが、やってみると面白いので学生たちにもどんどん挑戦することを勧めている。

――先生が科学技術の道に進まれたきっかけは?

 「中学生の頃にNHKの科学番組アインシュタインロマンを見て面白いと思ったのです。一番興味を持ったのは宇宙ですね。小学校3年の頃に親が小さい天体望遠鏡を買ってくれて、それで星とかを見るのが好きでした。家は九州の田舎だったので星は綺麗でした。」

――でも、天体物理を専門にはできなくて・・・

 「で、私が学位を取ったのは材料関係なのですけれども、それは全て昔の宇宙の不思議に目覚めたことからきていると思います。

 モーターとか制御とか、そういうモノづくりよりも、物質の本来の姿を追求すると言える材料などに興味を持っていました。半導体の本質は何かといった具合です。

 正直に言うと当初は電気回路とかはあまり好きでなかったです。ものすごく人為的な感じがして。それよりも原子、電子とかの世界に興味がありました。」

河野先生は「本質的なことを考えるにが好き」――その方向で研究をしていらして、学位論文が「高導電性透明酸化物薄膜の熱電子励起プラズマスパッタ法による形成と電子物性に関する研究」という結果になるわけですね。これをオープンキャンパスで見学に来た高校生に分かりやすく説明すると、どうなるのですか?

 「分かりやすく言うと、液晶ディスプレイとか太陽電池に使う透明な電極を作ることです。太陽電池ですと、電気は外に出さないといけませんよね。でも光を入れないと発電できません。つまり、透明でかつ電気を取り出せるように導電性がなければいけません。

 そうした性質を持つ薄い膜を作る方法がプラズマスパッタ法です。薄さ200nm(1nmは10億分の1m)と非常に薄いので、材料を削ってではできません。

 プラズマと呼ばれるものすごくエネルギーの高いイオンを原料になる固体にバーンとぶつけるのです。そうすると原料がいったん、原子、分子レベルまでバラバラになるので、それを基板と言われる土台の上にバーッと散らして作るのです。散らすことを英語でスパッタ(sputter)というのです」

――なるほど。

 「透明で電気を通すというのは実は全く反対の性質なのです。電流をよく流す物は基本的にはキンキラキン、光を反射する金属のように見えます。一方、透明なものは電気を通しません。その二つの相反する性質が両立できるような材料を持ってきて、後は半導体の製造技術で培われてきたドーピングという不純物を少し入れる操作をやってやると出来上がるのです。

 酸化亜鉛で、この特性が出るというのはKITの南 内嗣(みなみ ただつぐ)先生が最初に発見されたと思います。九州にいた頃から南先生の論文を読んで勉強していました」

――その縁で先生はKITに来られたのですか?

電気電子工学科 池永 訓昭(いけなが のりあき)准教授 池永先生はKITで修士を終えられた後に、地元金沢市の優良企業・澁谷工業に勤務するも、どうしても子供の頃の夢の研究者になりたくてまたKITに戻ってこられた。今でも原子1個、1個をコントロールして新材料を作る研究で夢を追い続けている。

――先生は大阪のご出身でKITにこられたのは何か理由があったのですか?

 「大阪にいると金沢工業大という名前は当時、全然聞こえてこなかったのですよ。だけども、大阪には大阪産業大学とか大阪工業大学などいろいろあって、大体みんな行くところが決まっているのです。それで何か面白みがないなという感じで。でも、関東、東京は人口が多いのでしんどそうだとも。やはり、金沢あたりが来やすいかなと」

――理系だったのですか?

 「もともと中学生の頃から研究者になりたかった。機械いじりとかいろいろやっていた。イメージしていたのは科学者が白衣を着ていろいろやっている感じ。鉄腕アトムのお茶の水博士のような(笑)。でも教員になろうとは全く思っていなくて。一応、会社に就職したのですけど、白衣を着ているというよりは作業服を着て油まみれになっていたというのが実情でした」

――入社された澁谷工業はどのような会社ですか?

 「金沢に本社があるボトリング機械の会社で、大体、身の回りにあるビン詰めされているものはほぼ国内トップシェアです。ペットボトルのお茶、コーラなどを充填する装置の国内シェアが70~80%もあります。

 もともとは醤油のビン詰からスタートして日本酒になって、最近では清涼飲料水ですけれども。その他にもマヨネーズやケチャップなどいろいろなものを。最近では製薬設備の薬の搬送も含めて全部自動でやるとか。また力を入れているのが再生医療方面のプラントなども」

――先生はその会社で何を担当されたのですか?

 「もともとはそういうビン詰以外に何か新しいことをやろうと、メカトロ事業部というのが立ち上がったのです。半導体の工程や医療機器も始めたのです。その中の一つにレーザーがあったのです。実はその頃、日本国内でレーザー発振器を作れる会社はなかったのです。その後、独自のレーザー発振器というのを初めて作ったのが澁谷工業だったのです」

「子供の頃から研究者になりたかった」という池永先生――それはすごい技術力です。

 「私が会社に入ってすぐにやったのがプラズマを使ったレーザー発振器です。最近では固体の発振器が使われていますが、溶接や鉄板の切断などは全部CO2レーザーです。

 後、私が関わったのは会社としていろいろやってみたいということもあったので、いろいろな提案をしました。その中の一つはペットボトルの内面にコーティングしてガスが抜けないようにするというものです。そうすればビールの入れ物にペットボトルが使えてとても便利なのですが」

――でも、コーラやサイダーはすでにペットボトルがあるのでは?

 「コーラなどは少し抜けてもいいように最初から高圧の炭酸ガスをわざと入れているのです。ところがビールをそうすると劣化が激しく味が変わってしまうのです。もう一つ、紫外線からバリアしないといけない。牛乳も同じです」

――個人的にはペット入りのビールがあるとありがたいです(笑)。

電気電子工学科 漆畑 広明 教授 漆畑先生は長年、三菱電機で燃料電池、リチウム電池の研究開発に従事されてきた。その経験から「基礎技術の蓄積こそが大事」と力説される。そして、「どんな開発も度重なる失敗の上に初めて実現する」とも。

----先生は静岡県の高校から東北大に進学されました。東京の大学なら分かりますが何故、東北大学なのですか?

 「静岡では意外と東北大は人気があったのです。理由は分かりませんが。高校のテニス部の先輩が東北大に進んでいたりして割と身近な存在でした。特別な理由はないのです」

----東北大では電気化学を専攻されます。

 「3年で専門科目が入って来て一番面白そうなのが電気化学でした。電気化学ってみんな嫌いなんですけど。

 化学屋さんにとって電気化学というのは、外から電気的なものが入って来て反応がどう動くとかというようなことをやるので少し違和感が出てくるのです。一方、電気屋さんからみると化学的な部分が入ってくるので、とっつきにくい所が出てくる。今、KITで電気系を教えていますが、学生は化学をやっていないので、4年生になって少し勉強してもらい、化学も教えながら進めているのです」

----現実のエレクトロニクスの分野では電気化学は電池をはじめとしてかなり重要な分野ではないですか。

 「そうですね。例えば腐食なども電気化学です。酸化還元反応で鉄イオンとかが溶けていくわけですから。あるいはガスを吸着して、その濃度を測るセンサーとか。電圧が変化するので、その電圧をモニターして吸着量を調べたりするのです」

----腐食というのは、今、橋や道路の劣化を防ぐメンテナンス工学の中でも重要な課題ですね。

 「はい。腐食は昔からそのような部分で重要なのですが、なかなか表に出て来ない。でも企業の中では腐食に携わる人たちは大勢いるのです。今日もちょっとある大手企業のインターンシップの募集を見ていたら"腐食、電気化学の分かる人"と出ていました。現実にはさまざまなモノづくりの中で大切な分野です。

 派手で脚光を浴びているのは燃料電池やリチウム電池などの分野ですが、ベースのところでは重要なのです」

----でも先生は東北大の博士課程で燃料電池を研究され、ダイレクトに三菱電機に入られた。随分、時代を先取りされていたのでは?

 「70年代の後半から80年代にかけて燃料電池が注目されてきていたのです。今、思い出すと当時、燃料電池は論文の上にしかなかったのです。ドクターに残るという話もありましたが、ちょっと企業に出てモノを作ってみたいと」

----三菱の中央研究所に入社されて、次に先端技術総合研究所のエネルギー変換技術部部長になられていますが。

電気電子工学科 宮城 克徳 教授 現在の我々の生活を支えてくれているのは交流電力システム。その重要機材の一つが電圧をコントロールしてくれる変圧器(トランス)だ。一般人には馴染みのない、実に地味な存在だが、実際は騒音を出したり内部が劣化したりするので絶え間ない研究、開発が進められている。長い間、このトランスの研究をしてこられた宮城先生の話をうかがった。

----先生は室蘭工業大学電気工学科のご出身ですが、大学に入るとき電気関係に進みたいという何かきっかけはあったのですか?

 「特に電気をやりたいというわけではなくて、当時、電気とか電子は工学部の中で割と競争率の高い人気学科でした。そこで挑戦してやろうと。

 電気に入って特に何をやりたいということもなかったのですが、目に見えない電気を見る事ができるという研究室に衝撃を受けました。そこで研究していたのはいわゆる放電の実験です。雷もそうですが、放電現象そのものは大昔からあるのですが、電気を肉眼で見る方法というのはそれほど多くないので面白いと思ったのです」

----それで修士にまで進まれて放電のどのような研究を?

 「対象物としては電線を絶縁する碍子(がいし)ですね。碍子に汚れが付きますと電気を通しやすくなってしまうのです。基礎実験としては液体の上に電極を置いて放電させて観測します。その時にシュリーレン法という方法を初めて使いました。これを使うとマイクロセカンド、100万分の1秒という短い時間での放電の変化の様子がわかります」

 透明な物質の中で場所により光の屈折率が違うとき、縞模様やもや状の影が見える現象をシュリーレン現象と呼ぶ。暑い日に長時間日光が当たった自動車の屋根の上にもやのようなものが見える事がある。これは温度によって空気の密度が変わるためにおこるシュリーレン現象の一つだ。シュリーレン現象を利用して目に見えないものを見えるようにするのがシュリーレン法だ。シュリーレンはドイツ語のSchliere(むら)からきている。

----修士を終えられて、重電関連が専門の明電舎に入社され沼津の電力機器工場に配属されます。室蘭から沼津だと暖かくて暮らしやすかったですか。ここではどんな仕事をされたのですか?

 「いいえ、北海道の寒さに慣れていると最初、沼津は蒸し暑く感じました。慣れるまで夏の暑さはつらかったです。ここで電力用変圧器、トランスの研究開発をしていました」

----トランスというと素人の私には、まだ研究すべきことがあるのかと思ってしまいます。現代においてトランスの研究開発というと何が難しいのですか?

 「難しい点はたくさんあります。これからもまだまだ出てきます。その一つは音です。騒音。ブーンという動作音。中は電線をくるくる巻いたコイルだからどうしても動くのです。そのために音が出る。

 それでいかに振動を抑えるか、少なくするかというのは課題として残っています。他に、中に入れる油ですが、化石燃料をなるべく使わないようにして植物性の油に替えていこうという動きもあります」

----それは冷却用の油ですか?

 電気電子工学科 大澤 直樹 准教授 普通の人が朝起きて夜寝るまで、一番多く接触する電子部品は何か? それは恐らくスイッチだろう。朝一番にメールをチェックする人はスマホのスイッチを、お湯をわかす人は電気ポットのスイッチを入れて一日が始まる。また夜寝る時は、部屋の電灯のスイッチを切らなくてはならない。これほど身近な部品はないのではないか。ところが、同じスイッチでも我々に電気を供給してくれる巨大電力システムのそれはほとんど馴染みがない。馴染みがないどころかスイッチ(遮断器)が存在することも知らない人ほとんどだろう。大澤先生は大学からずっと、このスイッチの研究をしてこられた。

----先生がスイッチの研究に入られたきっかけは何ですか?

 「地元・石川県立加賀高校からKIT電気電子工学科に入って博士課程まで行きましたが、指導の先生が大電力用スイッチの専門でしたので、それがきっかけです」

----大電力のスイッチの研究は何が課題なのですか? やはり火花が出るのを防ぐとか衝撃を止めるとかですか?

 「衝撃はそんなにないです。すごい放電はどうしても起きてしまいます。重要なのは小型にすることなのです。日本は変電所の地面が狭いので、いかにコンパクトにするかが勝負になります。最近は地下の変電所も多いので中に収めるには小型の方がいいのです」

----要するに放電は起きてしまうわけですね。

 「はい起きます。このときの電流が大きくて、最大で数万アンペアというとんでもない値なのです。この一瞬に2つの電気接点を離して、電流を切るのです。

 放電というのはどうしても高温になります。これをいかに冷やすかというのも課題です。冷たくすると電流は流れにくくなりますので、放電の周りにガスを吹き付けて、これをいかに冷やすかというのも勝負になります」

----そもそも家庭に電力を供給するシステムになぜスイッチが必要なのですか? 工事の時以外、ずっと電気は流れっ放しなのに。

 「例えば送電線に雷が直撃し送電線が短絡すると、大電流がそのまま送電線を通って変電所に流れ込んできます。最悪の場合、変電所にある変圧器が壊れてしまうのです。壊れると電気を輸送できなくなりますので、それを防ぐためにあるのです」

----そうか落雷事故防止が目的なのか。

 「雷ですと、どこかに落ちれば近くですぐスイッチを切ってしまって、また入れれば復旧できますので、それを瞬間的にやります。大体まばたきしている間に開いて閉じてというのができます。そのぐらいのスピードでポンポンとやっています」

----落雷は主に変電所で感知するのですか?

 「送電線の各所にさまざまな検出器があります。それをつかって落雷などの事故が判断できればすぐにスイッチを開いてまた閉じて、復旧すればそのまま流れていますし、復旧できなければまた開いてというのをパッパッと繰り返していきます。ですから日本ではほとんど停電がないのです」

「日本の電力システムは世界のトップクラス」と語る大澤先生----基本的なことですが、雷がどこかで落ちますね。落ちたというシグナルが変電所に行くのと、雷の電流が流れるのとほとんど同じではないのですか?

電気電子工学科 山口 敦史 教授 山口先生はKITの「教員録」の「横顔」欄に「民間会社の中間管理職で苦しかった時に人生についていろいろ考えました。そのとき、何か人の役に立つことをして“ありがとう”と言われるのが、人生で最も素晴らしいことだと悟りました。大学での教育・研究を通じてそれができれば幸せです」と書かれている。何があったのか?その背景をうかがった。

——先生は最初に素粒子物理の研究を志されたそうですが。

 「高校の頃から科学系の本を読んでいると、モノは何でできているのかとか、いろいろと基本的なことを知りたくなったのです。究極的には素粒子へ行くのかと漠然と思っていました。さらに関連した本を読んでいると、数式などが出て来てますます面白そうで、すごいなと思ったのです。

 湯川秀樹博士のノーベル賞にあこがれたわけではないですが、パイ中間子の話などを読むと、そういう研究をしたいなと思うようになりました」

——それで日本で最難関の東京大学理科一類に入られ、さらに内部でも最難関の物理学科に進まれました。でも素粒子から固体物理に研究の対象を変えられたのは何故ですか?

 「素粒子は本当に勉強しようと思うと、数学のめちゃくちゃ難しいものに遭遇するのです。もうイメージできないのです。連続群論とか、そういうものがでてくるのですが、二次元とか三次元とかで頭で想像できるうちはいいのですが、もうちょっと、どうにもこうにも。あれで挫折しましたね。

 でも、私のように素粒子研究を目指している人はたくさんいて、ドクターまで行っても助手になれないとう人が続出してくるのです。いわゆるオーバードクター問題というやつです。けれども本当に頭の良い人はドクターまで行かず、マスターで中退して助手として迎え入れられたりするのです」

「本当に頭の良い人に会って挫折したことも」と山口教授——やはり固体物理あたりだと少しイメージが湧くから分かり易いですか?

 「そうですね。固体物理は固体物理でシンプルではありません。素粒子はシンプルにシンプルにといこうとするけれども、固体物理は原子が10の23乗個とか集まっている世界なので、逆にそれをどのように分かり易いイメージにするのかということです。それには絶対に近似を使わないといけないのです。それを理解するのが難しいところだと思いますけれども、何とかなりましたね」

——先生はその後、大学を出られていきなりERATO(えらとー)に入ります。ERATOは科学技術振興機構が実施する大型プロジェクトで、機関・分野を超えた幅広い人材を揃える「人」中心のシステムですね。

 「就職活動をしたのですが、行きたいところが見つからなくて。それで東大の工学部にいらした榊(さかき)裕之先生がご自身のERATOプロジェクトに引き取ってくれたのです。ノーベル物理学賞の江崎玲於奈さんの弟子にあたる方です。

 “量子波プロジェクト”という名前で、ちょうどそのころ80年代、MBE(Molecular Beam Epitaxy , 分子線エピタキシー法)という結晶成長する層を1原子層ずつ積み重ねて、新たな機能をもつ素材を創ろうという技術が発展していました。電子が波のようにふるまう波動性という量子力学的な現象を利用しようというのです。

 固体物理としては最先端の研究だったので楽しかったです。」

——ERATOの後はNECに移られます。

電気電子工学科 井田 次郎 教授 井田先生は自ら「日本がシリコン半導体の黄金期であった90年代、企業にて、それ行けどんどんの研究開発と実用化を担当してきました」という。興味深い話がうかがえそうだ。

——東大で物理を学ばれたきっかけは何ですか?

 「とにかく量子力学というものに関心がありました。学生の頃、そもそも自然の認識の仕方において量子力学が出てきたところで考え直さなければならないという議論がでてきました。要するに量子力学ではすべてを波だというわけで、物質や粒子でも波だというわけですから。それは一体どういうことなのか。学生時代は確かに若かったので、こうした問題に結構、興味がありました。

 それで、量子力学が一番分かり易く目に見える形で出てくるレーザーに興味を持ったのです。学部、修士ともにレーザー系の研究室にいて、隣の研究室から光を運んで実験するなどというのをやっていました」

——就職もその関係で選ばれたのですか?

 「社会に出るにあたっては、どちらかというと半導体レーザーみたいなもので、インパクトがあるものは何かと考えました。当時はそれがガリウムヒ素という素材だったのです。その大手メーカーが住友電工でした。ガリヒ素をやりたくて住友電工に入ったのですが、シリコンに配属されました(笑)。

 その当時、1980年代ごろですが、鉄鋼メーカーなど、いろいろな業界がLSIに参入しようとしていたのです。住友電工は電線メーカーからシリコン、LSIに参入しようとしたのです。ちょうど、アメリカで技術を学んできた先輩が2人いらっしゃって、私はそこに配属になりました。要するに住友電工としてのシリコン立ち上げに居合わせたのです」

——その頃、作っていたLSIはどんな用途に使われていたのですか?

 「もう忘れてしまいましたけど、それは通信用に1種類だけ製品になっていたみたいな感じですね。その当時、大手電機メーカーはほとんどLSIをやっていて、住友電工はまさに2~3人の世界なのです」

——最初にご苦労された製品なのに忘れてしまうのですか?

 「私は製品というよりも製造のプロセス側ですから、実際の設計とかはみてないのです。どうやって作るかということなのです」

——なるほど。それこそステッパー(半導体製造装置)にどうやって入れていくということですね。

 「そうです。それが肝で転職したと言っても良い。ステッパーを導入しないと、次の話にならないと言う時に、住友電工は全部予算がガリヒ素に行ってしまうことになった。せっかくシリコンをやりかけたのだから、もっとシリコンをやりたいと思ったのです。

 シリコンをやっている大手メーカーを検討したら、大不況の時だったので、大きいところで採用してくれるのは沖と松下電器だけだったのです。ちょうど結婚したばかりだったので、どうせならカミさんの側に戻るかということで、沖に決め、関西から東京に戻ってきました」

——先生は沖電気では超LSI研究センター、プロセス技術センターを経て事業企画部門担当部長などの要職を経験されています。

電気電子工学科 小原 健司(おはら たけし)教授 2011年は超電導現象がオランダで発見されてちょうど100年になる。超電導とはある種の物質を液体ヘリウム温度(マイナス269度=絶対温度4.2K)まで冷やすと電気抵抗がゼロになるという現象。電気抵抗がゼロになれば、例えば送電ロスはなくなり省エネは革命的に進む。また1986年にはマイナス243度(絶対温度30K)以上でも超電導が起きる高温超電導物質の発見が世界中でブームとなったこともある。現在までの最高温度はマイナス109度(絶対温度164K)である。小原先生は研究者としてのスタート時点から一貫して超電導と取り組んでこられた。

——最初は超電導の何を研究されたのですか?

 「最初は超電導線の安定性、不安定性というものです。超電導線はその頃不安定だったのです。すぐに超電導ではなくなって常電導になってしまう。超電導マグネットが瞬間的に超電導でなくなると、どうなるかというと爆発のようになるのです。大きな魔法瓶のようなものに液体ヘリウムが入っていて、そこにマグネットがあるのです。電流で磁場を作っている。そのときに何かあった途端に常電導になったら、抵抗が一気に出て、熱がばっと出るのです。

 そうすると周りの液体ヘリウムが熱でばっと気化してしまいます。そうなると広い実験室も一瞬にして真っ白になってしまう。山の中に霧が立ちこめて何も見えなくなってしまうのと同じ感覚です。大規模なものを、1回だけ経験したことがあります。

 実験も含めて3年ぐらい、超電導線の安定性について研究し、論文を電気学会誌に投稿しました。」

——それがスタートですね。その後の応用は?

 「いろいろなことをやりましたが、77年以来ずっとやっているのは磁気分離です。磁気力を使って、汚れた水や空気をきれいにしようという。普通の状態では磁石に吸い付けられるのは鉄などの磁性金属だけですが、磁場の中ではすべての物質は磁性を持つのです。それを強い磁力で捕まえるのが磁気分離です。この利点は濃度の薄いものを大量に高速に分離できることです。

 今、実は一生懸命やろうとしているのは話題になっている除染関連です。福島原発から出た放射性物質が地上にあり、それを水で洗い流す除染作業が問題になっています。水にとけ込んだ希薄でしかも細かい放射性物質を磁気分離ならば確実にとれるのではと考えています。以前のつくばの研究仲間や大阪大、熊本大の先生達とアイデアを出し合っています。」

——福島の除染は社会問題になっているので是非実現させて欲しいです。

 「この磁気分離による汚染除去は95年ごろから結構脚光を浴びて、国のプロジェクトでいろいろやったのです。一番大きかったのは科学技術庁で、その後NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)だとか。私は04年にKITに移籍する前に、原子力予算や、その前は科技庁の超電導マルチコアプロジェクトで環境ホルモンを浄化したり、地熱水の中のヒ素を取り除くなどの研究をしていました。」

「磁気分離は除染に有効」と小原教授——磁気分離は他の方法に比べ何が利点なのですか?

電気電子工学科 平間 淳司(ひらま じゅんじ)教授 電気電子工学科、平間先生の全研究テーマの3分の2は「生き物」系だという。しかも生き物といってもキノコとか植物そして昆虫系だ。ユニークな研究にいたった背景をうかがった。

——最初は電気がご専門ですよね

 「私はもともと小さい頃からものづくり派で、電子部品を使ってものを作ったりしていて、電子工作や電子回路にすごく興味があったのです。小学校5年生ぐらいから真空管でラジオを作ったり。中1の時にはアマチュア無線の資格を取ったので無線機を自分で作りましたね。もちろん送信機も受信機も真空管です。

 電子回路が好きで高校も電気ですし、兄がKITの土木に行っていて、電子工学科もあるというので、親に僕も行きたいと頼んで」

手製の真空管アンプを見せる平間教授——それが、どうして生体の研究に向かわれたのですか?

 「大学出て就職したりしているのですが、基本的にはKITにずっといるのです。ただ学位を取ったのは人間に係るテーマでした。

 ノドが病気になると、声がしわがれ声のような病的な声になってしまう。そういう時に、音を調べて診断技術に使おうというのが、自分の学位論文でした。

 もう少し詳しく言うと、喉頭がんとかポリープになると声がおかしくなるのです。その声を音響分析して、特徴を抽出します。こんどはその特徴から逆に音声合成で病気の人の声を作ったのです。

 それで次はお医者さんを相手にさせていただきました。臨床の現場では患者さんの声を聞いて、この患者はしわがれ声、空気が抜ける声とカルテに書くのだそうです。そのトレーニングをするために病気の声の合成装置を作ってあげたのです。

 それを熟練したお医者さんに聞いてもらって“これは確かに病気の声が出てる”などと評価してもらったのです」

——なるほど、すでに電気、電子だけの研究ではないです。でも、どうしてその学位論文をやることになったのですか?

 「もうお亡くなりになった先生ですが、医学系の先生がちょうどここの電子工学科に入ってこられたのです。その先生の下で研究をさせていただいたので、音声関連に興味が出てきたのです。その時に、自分で装置を作ったりいろいろしますので、電子回路などの技術が役立っているなという感じで研究ができたのです」

——それで生き物系の研究にも目覚めた?

 「学位を取ったとき、ちょうど他の方から“植物関係とか害虫防除とかで面白いことをやってみないか”と声をかけられたのです。

 医学系は大切なテーマですけど、単独でやるのはきついかなと。相手がお医者さんなので実験がやりにくいのです。それならと思い切ってテーマを変えてその話に乗らせてもらおうと。それから15年近くたつのですが、ずっと生き物系です」

——それは農業関連の方のですか?