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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

2009年12月 アーカイブ

 機械工学科 矢島 善次郎 教授 研究者の半生には専門分野に入るきっかけとなった「自分のやりたいのはこれだ!」と思う瞬間があることが多い。生まれて初めて望遠鏡で見た土星の輪に感動して天文学者になったり、鉄腕アトムのアニメを見てロボット製作者になったりといった具合である。
 
 矢島先生が鉄の研究を志したのはKITの金属材料の授業だったという。

――それまでは特に金属に興味を持っていたわけではなかったのですか?

 「子供の頃、お祭りか何かで肥後ナイフという小刀を買ってもらってよく遊びました。竹トンボとか作ったりして。でも使っているうちにだんだん刃の先端が曲がってきたりして切れなくなってしまう。

 雑誌や本などで刀鍛冶の人が刀を作る時、鉄を真っ赤にして水に入れてジューッとやったりする光景が頭にあって、焚き火を使って真似してみたら余計に切れなくなってしまったのですよ。そのことをずーっと不思議に思っていました」

――KIT に進学されたのは何故ですか?

 「ちょうど大学紛争の頃でごたごたしている大学はいやだったし、父親がサラリーマンでしたけど機械関係なので何となくという感じです。工学部をでてエンジニアになれればバラ色というイメージでした。

 大学はどこでもそうでしょうが、高校と違って好きな時間に行けて好きな授業をとれて面白かったです。3年の専門科目で金属材料の授業で初めて熱処理とか相変態とか結晶構造の話を聞いて、目からウロコが落ちたのです。子供の頃からの疑問だったなぜナイフが切れなくなったかが解けたのです。適正な温度以外で処理をしたことということです。へエーッという感じ。勉強というのはこういうことなのかと、それに気付いた。それからはかなり勉強に身をいれるようになり、4年の時に助手として大学に残ってみないかと言われたのです」

――それはラッキーですね。
 
 「それで残って機械工作の先生について切削工具の研究などをしているうちに、日立製作所の出身で金沢大学の工学部長までつとめられた小河 弘(ひろむ)という先生がKITに来られたのです。この先生が僕の本当の師です。

 小河先生は東京工業大を出て日立に入社、仕事をしながら圧延ロールの研究で学位を取られました。当時はサラリーマンをしながら学位をとるのは大変珍しいことでした。圧延というのは金属に圧力をかけて薄い板をつくることですが、僕も機械出身だけれども、金属の破壊現象に興味を持っていたので小河先生の下で研究をすることにしたのです。」

 ところが小河先生は矢島先生の学位論文をまさに審査している途中、脳梗塞で倒れ、そのまま入院するという事件が起きてしまった。

――ずいぶんとドラマチックですね。

情報工学科 五十嵐 寛(ゆたか) 教授 五十嵐先生の経歴は簡単に書けば、「東京工業大学で博士課程を修了し富士通研究所に入り、07年にKIT教授に就任」とわずか2行で終わってしまう。しかし、富士通時代に企業人として携わられた研究、業務の内容は実に多彩だ。その多くの経験が現在の専門、情報セキュリティに役立っていると言う。

――大学では最初に何を研究されたのですか?

 「三次元表示をやりたかったのです。今、映画で3Dがブームになっていますが、当時、ホログラムを使った方式が最先端で、実際にモノがそこにあるように見えてすごいなと思いました。それとは違う複眼レンズを使う方式を研究室でやらせてくれました。ところが、その複眼レンズのメーカーが撤退してしまい、研究も断念しました。

 次に、超音波を使って金属や複合材料の特性を分析する研究をしました。ついで、その生体への応用です。現在では超音波で胎児の様子など体の中の映像が見られますが、形を見るのではなく、反射してくる超音波の質を量的に測ることで悪性のがんなのか良性の腫瘍なのか見分けようとしたのです」

――それはユニークな研究ですね。

 「その論文を発表している時にたまたま富士通研究所の取締役が聞いていて、ちょうど富士通が医療部門に進出しようとしていた時で研究所に来ないかと誘われたのです。富士通と医療の結びつきはあまり聞いた事ないので、ちょっと考えていたら、"大丈夫、10年は続けるから"と言われました。そして本当に10年目に医療機部門から撤退してしまいました(笑)」

――それで先生はどうされたのですか?

 「撤退する以前に、まず3年ぐらいやった超音波の研究が共同研究者との関連で実績が出ず、他の医療分野を探してくれと頼まれました。まず目をつけたのがMRI。富士通はやっていなかったので、やろうと提案して作る直前まで行きました。

 ところが、神奈川県厚木にある別の研究所が、高感度のSQUIDを使った磁気センサーを作ったので、そのセンサーを使った医療機器を作らないかということになりました。そこで実際にセンサーを作って、あと磁気を遮るシールドルームとかも設計して作りました。先輩がいないので全部、自分たちで設計したので面白かったです。これは本格的な診断装置としてできるとこまでいきました」

医療機器まで設計した五十嵐教授――次はソフトウエア開発に移られたのですね。