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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

情報工学科 の最近のブログ記事

情報工学科 中野 淳 教授 中野先生は東大大学院で物理学(宇宙論)を専攻した後、日本IBMに入社、米国イリノイ大学アーバナ・シーャンペン校に留学。IBM退社後、今度はグーグルに入社という多彩な経歴の持ち主だ。「宇宙論」、「IBM」、「米国留学」のお話も興味深かったが今回は「グーグル」に焦点を合わせて紹介したい。

----先生はグローバル最先端企業、グーグルで働かれました。グーグルは「知の世界を再編成する」とも「世界をググる」とも言われ、その動向が常に注目されています。先生はIBM時代にスカウトされたのですか?

 「いいえ、それまでいたIBMで留学までさせてもらったのですが、向こうで取ったコンピュータ・サイエンスのPh.D.(博士号)をより良く活かせる仕事を求めて、転職先を探したのです。

----グーグルにはいつから?

 「2006年からです」

----では日本でもグーグルはすでに有名だった?

 「有名でした。ただ、東京のオフィスではまだ、エンジニアは30人ちょっとしかいない時代でした。日本での立ち上げ初期には立ち会えなかったのですが面白かったです。IT業界にいる人から見ると"すごい、よかったね"といわれましたが、親世代になると良く知らないとなります。今でもよく使われてはいるけれど、何で儲けている会社なのか知らない人が大部分ではないでしょうか?」

----私も良く知りません。タダで検索させて、何で儲けているのですか?

 「広告です。インターネットの広告。検索の時にでてくる広告や検索しなくてもブログサイトに行ったら出てくるようなバナーの広告とかありますよね。ああいうのをユーザーがクリックするたびに5円とか10円とか50円とかが広告主から支払われるのがチリも積もれば山となるので。

 「医療保険」や「自動車保険」を検索した時、横にでてくるのはもう少し高くて1回クリックするとより大きな額が入ってくる。広告主間の競争が激しいからです。また、すごくマイナーな同人コミック雑誌を検索した時に出てくる広告も、少額ではあるけれども広告費が入ってくる。」

----グーグルは相当、儲かっているという話は良く聞きますね

 「インフラにはものすごい投資をしていますが、1回インフラができてしまえば、ある程度は惰性でも収益は上がる。ただ、やはり競争はあるので常に品質は向上させていかなければなりません」

----"グーグルの秘密"のような解説本を読んでも今ひとつ分からなかったのですが、少し分かりかけてきました。

 「決算書とかを見ないと正確には分からないですが、今でも95%以上は広告だと思いますよ。この収益で先進的な実験プロジェクトをやっているのです」

----先生はグーグル時代、どのような仕事を担当されていたのですか?

情報工学科 田嶋 耕治 教授 KITでは多くの先生に留学経験がある。でも、そのほとんどが社会人になってからの企業派遣や研究者として一人前になってからの留学だ。田嶋先生はまだ博士課程の学生の時にフランス政府の給費留学生という珍しい留学を経験されている。しかも行かれたのがトゥールーズという日本人にはあまり馴染みのない都市にある国立の研究所だ。田嶋先生にはそのいきさつからうかがった。

——先生は北海道大学から直接フランスのトゥールーズ国立科学研究センター(CNRS、http://www.cnrs.fr/index.php )に留学されたのですか?

 「ちょうど学部1年生の時に日本全国で大学紛争という騒ぎがありました。あちこちの大学で学生がストライキや授業ボイコットをしたのです。北大でも入学式が中止になって授業も4月からなくなってしまいました。そこで部活でもやろうかと思っていたところに、たまたまフランス語研究会が勧誘にきまして、それでちょっとフランス語をやったら、英語よりも面白そうだということで、そのまま入ってしまいました。

 そのフランス語研究会の2、3年上の先輩が、フランス政府給費留学生というのを受けてフランスに行ったのです。先輩が行ったので自分もと試験を受け、幸い奨学金をいただくことができ、博士課程に入ってから1年の予定で行きました」

——トゥールーズというのは名前だけ聞いたことがあるような気がしますが。

 「日本人にとって一番馴染みがあるのはサッカー・ワールドカップで98年に日本が初出場、初試合をした都市としてです。

 フランス南部のスペインとの国境から100kmくらい北に上がったところで地中海と大西洋との中間点ぐらいです。フランスの航空産業の一大拠点都市でエアバスの本社、工場がありますし、ひと昔前はこの街で超音速旅客機コンコルドを造っていました。

 北大では自動制御工学講座にいたので、いろいろ文献を調べてトゥールーズに政府系の研究所がいっぱいありまして、その中で制御工学専門の研究所長に手紙を書いてお世話になったのです」

——観光的にはどうですか?

 「歴史も古く昔はスペイン系やイスラム系の文化があって、すごく良いところですよ。屋根が赤いレンガで統一されていて。

 ただ、私は海外どころか自宅から出て生活するのも初めてで。ちょっと情けない話ですがすぐホームシックになってしまいました。24時間フランス語ですし、街も金沢と同じくらいの人口だったと思うのですが日本人は4−5人しか会いませんでした。一年の予定を早めに切り上げて日本に帰ってきてしまいました」

——それは残念でした。それでまた北大に戻られてどのような研究を続けられたのですか?

 「ちょっと抽象的な話で分かりにくいのですが、システムアイデンティフィケーションといって、制御工学のダイナミックシステムの数学モデルです。インプットデータとアウトプットデータがあれば微分方程式でシステムのモデルを推定できますよ、という研究です」

——その後は富士通の国際情報社会科学研究所に入社されます。KITでは竹島卓先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2009/06/post-13.html )、松尾和洋先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2010/05/post-32.html )がこの研究所のご出身ですね。そこではどんな研究を?

情報工学科 長田 茂美 教授 ちょっと前は「情報爆発」、最近では「ビッグデータ」など、膨大な情報をどう扱うかは社会的な問題となっている。中でも、効率良く必要な情報を取り出す(データ)マイニング(mining)という技術は最も注目されている。長田先生は長い間、富士通研究所でコンピュータの応用研究に携わり、KITの現在ではマイニングにも挑戦している。

——先生は九州の高校から東京工業大に進まれていますが、東工大を選んだのは?

 「東京に出たかったのが正直なところではないでしょうか(笑)。あとロボットに興味があったのでロボット研究の盛んだった東工大を選んだのです。

 私の恩師は梅谷陽二先生という方で、生物の動きを模倣したロボットで有名です。例えばヘビの動きは、きれいな数学的に定義できる曲線で動いているのです。研究室では、それを観察するために漢方薬屋からシマヘビを買ってきたりしていました。走行実験では、ヘビをつかんで走らせなければいけないのですが、私はヘビが苦手でつかめなかったんです(笑)。それで私はモノを見分けるパターン認識の方をやらせてもらいました。

 もともとロボットのメカというより、制御とかビジョン、あるいは脳とかに興味があったのです」

——卒業して77年に富士通研究所に入社されています。

 「パターン認識の研究はずっと続けて行きたいと思っていました。パターン認識は発展すればロボットの目、視覚になります。視覚処理とパターン認識というのは近い分野でかけ離れていません。当時、富士通は旧通産省(現 経済産業省)の大型プロジェクトで、OCR(optical character reader), 光学的文字認識装置で手書き文字の認識を担当していました。そこらへんの研究も続けられたらと富士通研究所に入ったのです」

 OCRは手書き文字や印字された文字を光学的に読み取って、前もって記憶されたパターンとの照合により文字を特定し文字データとして認識する技術。今ではパソコンにも付属する一般的な技術だが当時は最先端の技術開発だった。

 また大型プロジェクト(大プロ)は旧通産省が音頭をとった官民あげての研究開発制度。人工知能開発を目指した「第五世代コンピュータ」(82年開始)などが有名だ。

——第五世代などの大プロは成果は別としてアメリカを驚かせるほどのインパクトがありましたが、最近はあまり話題になりません。日本の技術力というか国力の反映でしょうか?

 「どうなのでしょう。私はKITに来る前、情報大航海という経産省のプロジェクトにかかわっていたのですが、あれも大型プロジェクトという感じではありませんでした」

——入社時の話に戻りますが、OCRの後は?

 「大プロは1年あまりで終わりました。それで文字の次は図形とか画像だろうということで、タイミング良く自分の新しい研究と以前から研究していたことが重なったので好きなことをやれました。

 まずやったのは文字から図面ということです。当時のCADのシステムは現在のように設計者が直接、インタラクティブに設計できません。設計者がまず設計図を鉛筆で製図機械にて描くのです。それをオペレーターに渡し、オペレーターがデジタイザーという機械で拾ってコンピュータにインプットするという、めんどくさいことをやっていたのです。

 それを設計者が描いた図面を自動的にスキャンし、認識してコンピュータに自動入力させる。オペレーターの替わりをする、そういうシステムをやりました」

——お使いになっていたコンピュータは大型、いわゆるメインフレームですか?

情報工学科 山本 知仁 講師 山本先生の研究室にはドラムやギター、キーボードなどが備わっている。学生たちが研究中でも、知らない人が見たらロックバンドの練習風景にしか見えないだろう。山本先生は情報工学科の所属だ。音楽とどんな関係があるのだろうか?

——音楽そのものが研究対象なのですか?

 「もともと私はコミュニケーションに興味があって、人のコミュニケーションとかを解析していたのですが、なかなかこういった人同士の会話は、何を言い出すのか分からないので実験対象としてやるとなると難しいのです。

 言葉を変えますと、人の会話は解析的に解けない、科学的に再現性を十分追求できないのです。そこでコミュニケーションの一形態として音楽の共同演奏に着目したのです。東工大の大学院の時にそのテーマで学位をとったのです。」

——もう少し詳しく説明していただけますか?

 「音楽の共同演奏だと、同じ演奏を何回やっても別に変じゃないでしょう。例えばジャズのセッションとか同じ曲目で5回演奏しても別におかしくありませんよね。

 でも人間がしゃべっている時に同じことを5回も繰り返していたら気持ち悪いじゃないですか? 普段の人の対話の中ではむしろ変わっていくことが当たり前で、変わることが対話の本質なのです。

 その点、音楽だと再現性を確保できます。さらにプラスして音楽は言語を使いませんが、音のリズムとかメロディを使ってリアルタイムの反応があります。それも一つのコミュニケーション形態と見なせるだろうと。いわば原始的なコミュニケーション形態として音楽の演奏をとらえて、ずっとそれを解析しているのです」

 昔、音楽理論を学んでいた友人から狩猟民族の音楽は遠くの仲間と獲物を追い込むためのコミュニケーションが起源で、日本人のような農耕民族の音楽は田植え歌のように皆でリズムを合わせるための手段が始まりと聞いたことを思い出した。

——それは狩猟民族がつかう太鼓のような音楽ですか?

 「そういうノリですね。その意味では情報工学の研究ではないようにみえるのですが。論文を書くときは音楽の共同演奏のデータをとって、例えば演奏が盛り上がっている時には、どのようにリズムが変化しているか、音が合っているか、演奏がどれくらい揺らいでいるかを科学的に調べて、それをまとめるということになります」

——先生自身も演奏するのですか?

情報工学科 松尾 和洋 教授 KITの先生は話の面白い方が多いが、松尾先生の体験談は飛び切り面白い。できるだけ、そのまま紹介しよう。

――ご出身はどちらですか?

 「岡山県の玉野です。三井造船の企業城下町で父は造船技師でした。ど田舎だけど工学系の技師などが身の回りにいっぱいいて結構文化水準が高かったです。

 私はかなり早熟で学校の勉強は自分でどんどんやってしまって中学校で大体高校の数学を終えてしまいました。その頃、ノーベル賞の湯川先生とか朝永先生の素粒子の面白い話がいっぱいあったので東大で理論物理をやろうと。

 それと高校の英語の先生に禅宗のお坊さんがいたので禅に凝ったりしました」

――高校生で“禅”とは本当に早熟ですね。

 「さらに東大に受かり東京で下宿を探して歩いている時に、井の頭公園近くで偶然、禅の道場を見つけました。しかも、そこに学生寮があるのでそこに住むことに決めたんです。東大生は私一人でいろいろな大学の学生が12~13人住んでいました。皆でいろいろな議論をして楽しかった。

 しかし、朝4時半に起こされて5時から作務が開始で、6時から1時間座禅です。しかも当番で掃除から食事の準備までやらなければならない。夜も7時から座禅です。

 面白かったけど、何せ眠い(笑)。授業の半分は寝てました。」

――4年間もそこにいたんですか?

 「それが3ヶ月(笑)。成績は急降下するし、これは駄目だと。普通の下宿に移ると今度は反動で遊びたくなりました。友達とマージャン合宿した時は3日連続役満という記録を打ち立てました。それで成績が下がり理論物理に行けなくなり、やむなく地球物理に進んだのです。

早熟でしたと話す松尾教授 ところが、必須授業ではないので私は選択しなかったのですが、海洋実習とかで船に乗らされ、海流の速度を計ったり海水の成分測定をやらされる授業があったりしたので“こんなのは俺の趣味じゃない、もっと頭で勝負したい”と大学院は理論物理に進んだのです」

 大学院で指導を受けたのが久保 亮五 教授(1920―1995 )。教授は物理学会長、学術会議会長などを務め、文化勲章も受けた統計力学・物性物理学の世界的権威だ。

――久保教授の下では何を研究したのですか?

情報工学科 五十嵐 寛(ゆたか) 教授 五十嵐先生の経歴は簡単に書けば、「東京工業大学で博士課程を修了し富士通研究所に入り、07年にKIT教授に就任」とわずか2行で終わってしまう。しかし、富士通時代に企業人として携わられた研究、業務の内容は実に多彩だ。その多くの経験が現在の専門、情報セキュリティに役立っていると言う。

――大学では最初に何を研究されたのですか?

 「三次元表示をやりたかったのです。今、映画で3Dがブームになっていますが、当時、ホログラムを使った方式が最先端で、実際にモノがそこにあるように見えてすごいなと思いました。それとは違う複眼レンズを使う方式を研究室でやらせてくれました。ところが、その複眼レンズのメーカーが撤退してしまい、研究も断念しました。

 次に、超音波を使って金属や複合材料の特性を分析する研究をしました。ついで、その生体への応用です。現在では超音波で胎児の様子など体の中の映像が見られますが、形を見るのではなく、反射してくる超音波の質を量的に測ることで悪性のがんなのか良性の腫瘍なのか見分けようとしたのです」

――それはユニークな研究ですね。

 「その論文を発表している時にたまたま富士通研究所の取締役が聞いていて、ちょうど富士通が医療部門に進出しようとしていた時で研究所に来ないかと誘われたのです。富士通と医療の結びつきはあまり聞いた事ないので、ちょっと考えていたら、"大丈夫、10年は続けるから"と言われました。そして本当に10年目に医療機部門から撤退してしまいました(笑)」

――それで先生はどうされたのですか?

 「撤退する以前に、まず3年ぐらいやった超音波の研究が共同研究者との関連で実績が出ず、他の医療分野を探してくれと頼まれました。まず目をつけたのがMRI。富士通はやっていなかったので、やろうと提案して作る直前まで行きました。

 ところが、神奈川県厚木にある別の研究所が、高感度のSQUIDを使った磁気センサーを作ったので、そのセンサーを使った医療機器を作らないかということになりました。そこで実際にセンサーを作って、あと磁気を遮るシールドルームとかも設計して作りました。先輩がいないので全部、自分たちで設計したので面白かったです。これは本格的な診断装置としてできるとこまでいきました」

医療機器まで設計した五十嵐教授――次はソフトウエア開発に移られたのですね。

情報工学科 津田 伸生 教授 筆者はごく初期の頃からパソコン(PC)には興味を持ち、ずっと使い続けてきた。その頃のPCは性能も悪く使い勝手も悪かった。長く使っていても、未だに根本的なところでコンピュータの動作原理は理解できていない。自分で簡単なプログラムを組んだこともなく、学校で本格的な勉強をしたことがないからだ。

 入門書を何冊も買い込んだがいつも2進法や基本回路のあたりで挫折してしまい、それ以上先に進まない。一方、PCの方は技術進歩が著しくインターネット端末となり映像も扱えるようになりますます理解不可能なものとなってしまっている。

 そのような筆者にとって津田先生が開発した「NT-ProcessorⅤ1」は驚異的な「教育ツール」だ。

 ごく簡単に言えば、普通に使われている表計算ソフト「エクセル」上でプログラムを書くことで、オリジナルなLSIが作れてしまうのである。しかも「Visual Elite」(ビジュアルエリート」というソフトで、書いているプログラムに対応するLSIの回路が視覚的にわかるようになっているというスグレものなのだ。

――LSIというと大メーカーしか作れないと思っていましたが、どうして可能になったのですか?

 「15年ほど前に米国で開発されたFPGAというデバイスが可能にしました。Field Programmable Gate Arrayの略で"書き換え可能型論理LSI"といいます。これができたのはフラッシュメモリのお陰です。今や誰もが使っているUSBメモリに使われているものと同じです。この集積度があがったフラッシュメモリの中に、論理回路すなわちコンピュータができてしまうのです」

 津田先生は旧・電電公社に入社し、武蔵野電気通信研究所に約23年在籍し、大型コンピュータのパーツ関連の研究やLSIの設計、インターネットを使ったサービス提供などの開発に従事されてきた。

開発したツールを示す津田教授――それだけ長い間、コンピュータ関連の研究をされてくると内容もどんどん変わってきたでしょうね?

情報工学科 竹島 卓 教授 今から20年以上前、新聞社で科学部の記者をしている頃、「東工大で面白い授業をしているらしいから取材して来い」と上司に命令されたことがある。

 授業は学生達のグループに課題を与え、その結果を一堂に集めてコンテストを行うというもの。その時の課題は「乾電池1個で人間の乗れる乗り物を作れ」だったと記憶する。ある学生グループは乾電池の電圧を上げるために1個の電池を4等分の輪切りにしたりして、その発想の斬新さに感心した。学生たちにアイデアを競わせるという授業自体もとてもユニークで面白い記事を書くことができた。

 この授業こそ、実は世界中に広がったロボコンの原点なのだ。この授業の生みの親は当時、東工大の教授だった森政弘氏(現・名誉教授)。森氏は日本の自動制御、ロボット工学の第一人者。竹島教授はこの森研究室の出身だ。

――当時、竹島先生は何を研究していたのですか?

 「ロボットの人工の手足、それも専ら足の制御をやっていました。森先生はお元気で今でも自在研という私設の研究所をずっと続けておられます。和魂洋才で最近は仏教の研究に力を入れておられます。かなり先生の影響を受けていると思いますが、ああいう発想豊かなとこまではとても追いつきません」

――就職して入った富士通でもユニークなところに配属されましたね。

 「国際情報社会科学研究所という富士通株式会社の中に作られた研究所です。日本のコンピュータの草分けとなった池田敏雄という有名な人と当時の富士通の社長などが、高名な統計学者である北川敏男さんを招聘して所長に迎えて設立しました。

 "社会科学"ではなくて"情報社会"を科学する研究所と言う意味で、今で言う大学院大学のようなものを目指したようです。企業の中にありながら、直接のしがらみはなく情報化社会というもののありようを基本的に考えるという非常にアカデミックなとこでした」