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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

情報工学科 の最近のブログ記事

情報工学科 佐野 渉二 准教授 佐野先生は、学部時代は人工知能、さらに難解そうな論理数学を学んでいたが、大学院になってセンサーなどを使った応用研究のユビキタス、ウェアラブル・コンピュータに変更したという。若くしてコンピュータ・サイエンスの基礎から応用まで幅広く手がけることになった経緯を伺った。

――いきなりで失礼ですが、大変お若く見えますが年齢は30代ですか?

 「2020年でちょうど40歳になりました。童顔というのかKITに来た頃は職員の方に学生と間違われて、そのような対応をされました(笑)。今はだいぶ、顔が知られてきて教員として認知されるようになりました」

――先生は地元石川県の小松高校から神戸大学に進まれました。あまり聞かないケースですね?

 「小松高校からだと、進学する大学は金沢、関西、東京方面と3分されます。関西は決して珍しくありませんが、神戸大は学年で1人か2人なので珍しいかも。いろいろな経緯で神戸大に進学することになりました。元々、横浜とか神戸とか大都市の横にある港町が好きだったので、良い所そうだと」

――高校の頃からコンピュータ関連を目指していたのですか?

 「学部は電気電子工学科でしたので、あまり情報関連へ行こうとは思っていなかったですね。大きな声では言えないのですが(笑)、高校から学部2年ぐらいまではヒマがあればゲームをしていたゲーム少年だったと思います。ロールプレイングとか野球系ですね。小学生時代にファミコンが家にあったので、それがゲームにはまっていったきっかけです」

――となるとパソコンに触ったのはもっと後になりますね。

 「中学に技術の授業で、初歩的なゲームを作るプログラミングのようなことで触る機会はありましたが、本格的になるのは神戸大に入って電気電子学科ですけれどもプログラミングの授業があったので、それが最初です。言語はC言語で、分からないなりにやっていたというのを覚えてます」

――電気電子工学科ではどんなことを勉強されたのですか?

 「電気回路、電子回路、半導体などいわゆる電気電子の一般ですね。あとアーキテクチャ基礎といったコンピュータ関連の科目もあったので、それらも履修していました。情報工学のネットワーク系とかは、学部の時はやっていなかったので本当に独学でやってきた感じですが、それ以外のハードウェア面の知識もあるので有利に働いているのではと思っています」

――学部の卒論はどんなテーマだったのですか?

 「分野で言うと、人工知能に近いのですが、論理数学の2つの形式を変換することでした。かなり理論系の分野になると思います」

――それはちょっと聞いただけで難しそうですね。さらに詳しく伺ってもさらに理解できそうにありません(笑)。博士課程では一段と難しいことを研究されたのですか?

情報工学科 松井 くにお教授 今やコンピュータ業界にとどまらず産業界全体がAI ( Artificial Intelligence, 人工知能)ばやりだ。テレビCM でもAI の言葉を聞かない日はないくらいだ。現在は第3次AIブームだそうで、第2次は1980年代に起きた。松井先生はその頃から日本を代表するコンピュータ会社 富士通でAIの研究開発に取り組んでこられたという。先生からその一部をうかがった。

――いきなり失礼ですが、最近の子供はともかく先生のご年齢としては"くにお"という平仮名のお名前は珍しいですね。

 「実は父もコンピュータ技術者だったのです。ごく初期だったので8ビットの世界でした。8ビットだと256文字しか表現できないので、漢字はコンピュータでは表現できないと父は思っていたらしくて。

 もともと父は通産省関連の研究所にいて、辞めて静岡大学の教授になったのです。それで私も中3の時に東京から浜松に移りました。そして静岡大から富士通に入り、2017年から縁あってKITに来ました。期せずして父と同じような道を歩むことになりました」

――靜大の学部卒からすぐに富士通研究所に入られたのですか?

 「はい。当時は学部からでも研究所が採用してくれたのです。やはり平仮名の名前のこともあるので入社の時に"日本語処理、漢字処理がやりたいです"と言いました。そしたら、会社は"いや、日本語だけでなく英語も助けてよ"と言われ、最初にやったのは機械翻訳でした。その機械翻訳が、まさに私のAIとの出会いでした」

――機械翻訳というのはあまり聞いたことがありませんが?

 「今、Googleなどが普通にやっている、コンピュータを使ってする自動翻訳のことです。当時、英語でmachine translationと言ったので、それを直訳したわけです。

 人工知能の第2次ブームでした。ルールベースというのですけれど、プログラムはif then else いわゆる"もし、こうだったら、こうしましょう"、"そうでなかったらこうしましょう"というif then else の連続でお化けみたいなシステムだったのです。

 例えば医療診断とかですね。"こういう症状があったらこの病気だ"とか"そういう病気だったら、こう対処しましょう"と、といった具合です。翻訳は言葉をコンピュータで分析して日本語から英語に、英語から日本語に直すのです。

 現在のAIブームは第3次と言われ、学習系あるいはディープランニングという進化した方法が取れれています」

――そう言えば、当時の第2次人工知能は、専門家の知識、経験を、コンピュータに替わりにやらせるという意味でエキスパートシステムとも言っていたのを思い出しました。それで翻訳もできたのですね。でも日本語は難しくないですか?

 「はい、よくそう聞かれるのですが、言葉の難しさはみんな一緒なのです。日本語が特に難しく見えるのは、単語と単語の間に切れ目がないからです。英語だとブランク、空白があって単語というのはしっかり分かれていますが、日本語の場合は全部続けて書くので、まずは文章を単語ごとにしっかり切り分けるということが必要になるのです。その単語に分けたものを分析していきましょうというので、そこはそれほど難しくはないのです」

――難しいのはどのようなところですか?

情報工学科 黒瀬 浩 教授 黒瀬先生は国立群馬高専を卒業して、すぐにコンピュータ会社に就職された。以来、第一線でシステムエンジニアとして活躍しながら、大卒や博士の資格を取られた。移り変わりの激しいコンピュータ業界の歴史とご自身の歩みを振り返ってもらった。

――先生は群馬県のご出身なのですか?

 「いいえ、埼玉県の寄居というところです。国立の高専が埼玉県になかったので、中学を卒業して群馬県に行き、高専に入学し卒業してすぐに働いてしまったのです。ですから大学とか大学院に行ったのは随分後なのです。寄居から高崎に通うのは大変なので寮に入りました。高専はみんな寮が付いているのです」

――では寮でひたすら勉強できた。

 「今、国立高専は進学校になってしまった。東大や東工大に行く裏ルートではないですけれど、高校に進学するより高専に行って編入する方が楽だという。

 私の頃はそこまで進学校ではなかったから、クラスのうち10%くらいが長岡技科大か豊橋技科大に行くような、そんな時代。高専から行くための大学として、この2大学ができて、割と文部省が推薦したのです。

 でも、景気が良かったので学生1人に対して求人は20社以上来ていましたから、就職は簡単に決まりました。行ったらぜひウチに来てくれと、それで終わり」
 
――入社された日本データ・ゼネラルはどのような会社ですか?

 「もうないです。というか、名前が変わってしまいました。かつてミニコンピュータという産業があったのです。データ・ゼネラルは最初IBMに買われ、次にオムロンに買われて、今は三菱化学か何かの傘下の会社で、一時期社員が2000人近くいたのですが、今は300人くらいではないでしょうか」

*注 1960年代初め、コンピュータとは大型のメインフレームのことだった。大企業や官庁しか維持できなかった、これに対し60年代後半から、大学の研究室や中企業でも維持管理できる小型高性能コンピュータが出てきて、これをミニコンピュータ(ミニコン)と呼んだ。次第に高性能になりパソコンやインターネットがでてくる源流となった。

――会社では何を担当されたのですか?

 「システムエンジニア、SEです。人手不足ですから半年ぐらい研修して、すぐに現場に出されたとか、お客のところに行って打ち合わせして、そこで納める製品を決めて来い、みたいな感じです。

 ですから社内講習会とか結構多かったです。アメリカに行って研修を受けてきた人が講習会をやるとか。海外出張も多かったです。私はあまり行かなかったですけれど」

――その頃のSEは具体的にどんな感じのお仕事ですか?

 「今はソリューションとか言っていますよね。お客様に最適なものを作る、そういう時代ではなかったですから。逆に作り手の論理が優先する、いわゆるプロダクトアウトの時代です。会社が作ったものを紹介して、それを使ってもらうという感じです。IBMも富士通もみんなそういう売り方をしていました」

――ずいぶんと時代が変わりました。

情報工学科 中野 淳 教授 中野先生は東大大学院で物理学(宇宙論)を専攻した後、日本IBMに入社、米国イリノイ大学アーバナ・シーャンペン校に留学。IBM退社後、今度はグーグルに入社という多彩な経歴の持ち主だ。「宇宙論」、「IBM」、「米国留学」のお話も興味深かったが今回は「グーグル」に焦点を合わせて紹介したい。

----先生はグローバル最先端企業、グーグルで働かれました。グーグルは「知の世界を再編成する」とも「世界をググる」とも言われ、その動向が常に注目されています。先生はIBM時代にスカウトされたのですか?

 「いいえ、それまでいたIBMで留学までさせてもらったのですが、向こうで取ったコンピュータ・サイエンスのPh.D.(博士号)をより良く活かせる仕事を求めて、転職先を探したのです。

----グーグルにはいつから?

 「2006年からです」

----では日本でもグーグルはすでに有名だった?

 「有名でした。ただ、東京のオフィスではまだ、エンジニアは30人ちょっとしかいない時代でした。日本での立ち上げ初期には立ち会えなかったのですが面白かったです。IT業界にいる人から見ると"すごい、よかったね"といわれましたが、親世代になると良く知らないとなります。今でもよく使われてはいるけれど、何で儲けている会社なのか知らない人が大部分ではないでしょうか?」

----私も良く知りません。タダで検索させて、何で儲けているのですか?

 「広告です。インターネットの広告。検索の時にでてくる広告や検索しなくてもブログサイトに行ったら出てくるようなバナーの広告とかありますよね。ああいうのをユーザーがクリックするたびに5円とか10円とか50円とかが広告主から支払われるのがチリも積もれば山となるので。

 「医療保険」や「自動車保険」を検索した時、横にでてくるのはもう少し高くて1回クリックするとより大きな額が入ってくる。広告主間の競争が激しいからです。また、すごくマイナーな同人コミック雑誌を検索した時に出てくる広告も、少額ではあるけれども広告費が入ってくる。」

----グーグルは相当、儲かっているという話は良く聞きますね

 「インフラにはものすごい投資をしていますが、1回インフラができてしまえば、ある程度は惰性でも収益は上がる。ただ、やはり競争はあるので常に品質は向上させていかなければなりません」

----"グーグルの秘密"のような解説本を読んでも今ひとつ分からなかったのですが、少し分かりかけてきました。

 「決算書とかを見ないと正確には分からないですが、今でも95%以上は広告だと思いますよ。この収益で先進的な実験プロジェクトをやっているのです」

----先生はグーグル時代、どのような仕事を担当されていたのですか?

情報工学科 田嶋 耕治 教授 KITでは多くの先生に留学経験がある。でも、そのほとんどが社会人になってからの企業派遣や研究者として一人前になってからの留学だ。田嶋先生はまだ博士課程の学生の時にフランス政府の給費留学生という珍しい留学を経験されている。しかも行かれたのがトゥールーズという日本人にはあまり馴染みのない都市にある国立の研究所だ。田嶋先生にはそのいきさつからうかがった。

——先生は北海道大学から直接フランスのトゥールーズ国立科学研究センター(CNRS、http://www.cnrs.fr/index.php )に留学されたのですか?

 「ちょうど学部1年生の時に日本全国で大学紛争という騒ぎがありました。あちこちの大学で学生がストライキや授業ボイコットをしたのです。北大でも入学式が中止になって授業も4月からなくなってしまいました。そこで部活でもやろうかと思っていたところに、たまたまフランス語研究会が勧誘にきまして、それでちょっとフランス語をやったら、英語よりも面白そうだということで、そのまま入ってしまいました。

 そのフランス語研究会の2、3年上の先輩が、フランス政府給費留学生というのを受けてフランスに行ったのです。先輩が行ったので自分もと試験を受け、幸い奨学金をいただくことができ、博士課程に入ってから1年の予定で行きました」

——トゥールーズというのは名前だけ聞いたことがあるような気がしますが。

 「日本人にとって一番馴染みがあるのはサッカー・ワールドカップで98年に日本が初出場、初試合をした都市としてです。

 フランス南部のスペインとの国境から100kmくらい北に上がったところで地中海と大西洋との中間点ぐらいです。フランスの航空産業の一大拠点都市でエアバスの本社、工場がありますし、ひと昔前はこの街で超音速旅客機コンコルドを造っていました。

 北大では自動制御工学講座にいたので、いろいろ文献を調べてトゥールーズに政府系の研究所がいっぱいありまして、その中で制御工学専門の研究所長に手紙を書いてお世話になったのです」

——観光的にはどうですか?

 「歴史も古く昔はスペイン系やイスラム系の文化があって、すごく良いところですよ。屋根が赤いレンガで統一されていて。

 ただ、私は海外どころか自宅から出て生活するのも初めてで。ちょっと情けない話ですがすぐホームシックになってしまいました。24時間フランス語ですし、街も金沢と同じくらいの人口だったと思うのですが日本人は4−5人しか会いませんでした。一年の予定を早めに切り上げて日本に帰ってきてしまいました」

——それは残念でした。それでまた北大に戻られてどのような研究を続けられたのですか?

 「ちょっと抽象的な話で分かりにくいのですが、システムアイデンティフィケーションといって、制御工学のダイナミックシステムの数学モデルです。インプットデータとアウトプットデータがあれば微分方程式でシステムのモデルを推定できますよ、という研究です」

——その後は富士通の国際情報社会科学研究所に入社されます。KITでは竹島卓先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2009/06/post-13.html )、松尾和洋先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2010/05/post-32.html )がこの研究所のご出身ですね。そこではどんな研究を?

情報工学科 長田 茂美 教授 ちょっと前は「情報爆発」、最近では「ビッグデータ」など、膨大な情報をどう扱うかは社会的な問題となっている。中でも、効率良く必要な情報を取り出す(データ)マイニング(mining)という技術は最も注目されている。長田先生は長い間、富士通研究所でコンピュータの応用研究に携わり、KITの現在ではマイニングにも挑戦している。

——先生は九州の高校から東京工業大に進まれていますが、東工大を選んだのは?

 「東京に出たかったのが正直なところではないでしょうか(笑)。あとロボットに興味があったのでロボット研究の盛んだった東工大を選んだのです。

 私の恩師は梅谷陽二先生という方で、生物の動きを模倣したロボットで有名です。例えばヘビの動きは、きれいな数学的に定義できる曲線で動いているのです。研究室では、それを観察するために漢方薬屋からシマヘビを買ってきたりしていました。走行実験では、ヘビをつかんで走らせなければいけないのですが、私はヘビが苦手でつかめなかったんです(笑)。それで私はモノを見分けるパターン認識の方をやらせてもらいました。

 もともとロボットのメカというより、制御とかビジョン、あるいは脳とかに興味があったのです」

——卒業して77年に富士通研究所に入社されています。

 「パターン認識の研究はずっと続けて行きたいと思っていました。パターン認識は発展すればロボットの目、視覚になります。視覚処理とパターン認識というのは近い分野でかけ離れていません。当時、富士通は旧通産省(現 経済産業省)の大型プロジェクトで、OCR(optical character reader), 光学的文字認識装置で手書き文字の認識を担当していました。そこらへんの研究も続けられたらと富士通研究所に入ったのです」

 OCRは手書き文字や印字された文字を光学的に読み取って、前もって記憶されたパターンとの照合により文字を特定し文字データとして認識する技術。今ではパソコンにも付属する一般的な技術だが当時は最先端の技術開発だった。

 また大型プロジェクト(大プロ)は旧通産省が音頭をとった官民あげての研究開発制度。人工知能開発を目指した「第五世代コンピュータ」(82年開始)などが有名だ。

——第五世代などの大プロは成果は別としてアメリカを驚かせるほどのインパクトがありましたが、最近はあまり話題になりません。日本の技術力というか国力の反映でしょうか?

 「どうなのでしょう。私はKITに来る前、情報大航海という経産省のプロジェクトにかかわっていたのですが、あれも大型プロジェクトという感じではありませんでした」

——入社時の話に戻りますが、OCRの後は?

 「大プロは1年あまりで終わりました。それで文字の次は図形とか画像だろうということで、タイミング良く自分の新しい研究と以前から研究していたことが重なったので好きなことをやれました。

 まずやったのは文字から図面ということです。当時のCADのシステムは現在のように設計者が直接、インタラクティブに設計できません。設計者がまず設計図を鉛筆で製図機械にて描くのです。それをオペレーターに渡し、オペレーターがデジタイザーという機械で拾ってコンピュータにインプットするという、めんどくさいことをやっていたのです。

 それを設計者が描いた図面を自動的にスキャンし、認識してコンピュータに自動入力させる。オペレーターの替わりをする、そういうシステムをやりました」

——お使いになっていたコンピュータは大型、いわゆるメインフレームですか?

情報工学科 山本 知仁 講師 山本先生の研究室にはドラムやギター、キーボードなどが備わっている。学生たちが研究中でも、知らない人が見たらロックバンドの練習風景にしか見えないだろう。山本先生は情報工学科の所属だ。音楽とどんな関係があるのだろうか?

——音楽そのものが研究対象なのですか?

 「もともと私はコミュニケーションに興味があって、人のコミュニケーションとかを解析していたのですが、なかなかこういった人同士の会話は、何を言い出すのか分からないので実験対象としてやるとなると難しいのです。

 言葉を変えますと、人の会話は解析的に解けない、科学的に再現性を十分追求できないのです。そこでコミュニケーションの一形態として音楽の共同演奏に着目したのです。東工大の大学院の時にそのテーマで学位をとったのです。」

——もう少し詳しく説明していただけますか?

 「音楽の共同演奏だと、同じ演奏を何回やっても別に変じゃないでしょう。例えばジャズのセッションとか同じ曲目で5回演奏しても別におかしくありませんよね。

 でも人間がしゃべっている時に同じことを5回も繰り返していたら気持ち悪いじゃないですか? 普段の人の対話の中ではむしろ変わっていくことが当たり前で、変わることが対話の本質なのです。

 その点、音楽だと再現性を確保できます。さらにプラスして音楽は言語を使いませんが、音のリズムとかメロディを使ってリアルタイムの反応があります。それも一つのコミュニケーション形態と見なせるだろうと。いわば原始的なコミュニケーション形態として音楽の演奏をとらえて、ずっとそれを解析しているのです」

 昔、音楽理論を学んでいた友人から狩猟民族の音楽は遠くの仲間と獲物を追い込むためのコミュニケーションが起源で、日本人のような農耕民族の音楽は田植え歌のように皆でリズムを合わせるための手段が始まりと聞いたことを思い出した。

——それは狩猟民族がつかう太鼓のような音楽ですか?

 「そういうノリですね。その意味では情報工学の研究ではないようにみえるのですが。論文を書くときは音楽の共同演奏のデータをとって、例えば演奏が盛り上がっている時には、どのようにリズムが変化しているか、音が合っているか、演奏がどれくらい揺らいでいるかを科学的に調べて、それをまとめるということになります」

——先生自身も演奏するのですか?

情報工学科 松尾 和洋 教授 KITの先生は話の面白い方が多いが、松尾先生の体験談は飛び切り面白い。できるだけ、そのまま紹介しよう。

――ご出身はどちらですか?

 「岡山県の玉野です。三井造船の企業城下町で父は造船技師でした。ど田舎だけど工学系の技師などが身の回りにいっぱいいて結構文化水準が高かったです。

 私はかなり早熟で学校の勉強は自分でどんどんやってしまって中学校で大体高校の数学を終えてしまいました。その頃、ノーベル賞の湯川先生とか朝永先生の素粒子の面白い話がいっぱいあったので東大で理論物理をやろうと。

 それと高校の英語の先生に禅宗のお坊さんがいたので禅に凝ったりしました」

――高校生で“禅”とは本当に早熟ですね。

 「さらに東大に受かり東京で下宿を探して歩いている時に、井の頭公園近くで偶然、禅の道場を見つけました。しかも、そこに学生寮があるのでそこに住むことに決めたんです。東大生は私一人でいろいろな大学の学生が12~13人住んでいました。皆でいろいろな議論をして楽しかった。

 しかし、朝4時半に起こされて5時から作務が開始で、6時から1時間座禅です。しかも当番で掃除から食事の準備までやらなければならない。夜も7時から座禅です。

 面白かったけど、何せ眠い(笑)。授業の半分は寝てました。」

――4年間もそこにいたんですか?

 「それが3ヶ月(笑)。成績は急降下するし、これは駄目だと。普通の下宿に移ると今度は反動で遊びたくなりました。友達とマージャン合宿した時は3日連続役満という記録を打ち立てました。それで成績が下がり理論物理に行けなくなり、やむなく地球物理に進んだのです。

早熟でしたと話す松尾教授 ところが、必須授業ではないので私は選択しなかったのですが、海洋実習とかで船に乗らされ、海流の速度を計ったり海水の成分測定をやらされる授業があったりしたので“こんなのは俺の趣味じゃない、もっと頭で勝負したい”と大学院は理論物理に進んだのです」

 大学院で指導を受けたのが久保 亮五 教授(1920―1995 )。教授は物理学会長、学術会議会長などを務め、文化勲章も受けた統計力学・物性物理学の世界的権威だ。

――久保教授の下では何を研究したのですか?

情報工学科 五十嵐 寛(ゆたか) 教授 五十嵐先生の経歴は簡単に書けば、「東京工業大学で博士課程を修了し富士通研究所に入り、07年にKIT教授に就任」とわずか2行で終わってしまう。しかし、富士通時代に企業人として携わられた研究、業務の内容は実に多彩だ。その多くの経験が現在の専門、情報セキュリティに役立っていると言う。

――大学では最初に何を研究されたのですか?

 「三次元表示をやりたかったのです。今、映画で3Dがブームになっていますが、当時、ホログラムを使った方式が最先端で、実際にモノがそこにあるように見えてすごいなと思いました。それとは違う複眼レンズを使う方式を研究室でやらせてくれました。ところが、その複眼レンズのメーカーが撤退してしまい、研究も断念しました。

 次に、超音波を使って金属や複合材料の特性を分析する研究をしました。ついで、その生体への応用です。現在では超音波で胎児の様子など体の中の映像が見られますが、形を見るのではなく、反射してくる超音波の質を量的に測ることで悪性のがんなのか良性の腫瘍なのか見分けようとしたのです」

――それはユニークな研究ですね。

 「その論文を発表している時にたまたま富士通研究所の取締役が聞いていて、ちょうど富士通が医療部門に進出しようとしていた時で研究所に来ないかと誘われたのです。富士通と医療の結びつきはあまり聞いた事ないので、ちょっと考えていたら、"大丈夫、10年は続けるから"と言われました。そして本当に10年目に医療機部門から撤退してしまいました(笑)」

――それで先生はどうされたのですか?

 「撤退する以前に、まず3年ぐらいやった超音波の研究が共同研究者との関連で実績が出ず、他の医療分野を探してくれと頼まれました。まず目をつけたのがMRI。富士通はやっていなかったので、やろうと提案して作る直前まで行きました。

 ところが、神奈川県厚木にある別の研究所が、高感度のSQUIDを使った磁気センサーを作ったので、そのセンサーを使った医療機器を作らないかということになりました。そこで実際にセンサーを作って、あと磁気を遮るシールドルームとかも設計して作りました。先輩がいないので全部、自分たちで設計したので面白かったです。これは本格的な診断装置としてできるとこまでいきました」

医療機器まで設計した五十嵐教授――次はソフトウエア開発に移られたのですね。

情報工学科 津田 伸生 教授 筆者はごく初期の頃からパソコン(PC)には興味を持ち、ずっと使い続けてきた。その頃のPCは性能も悪く使い勝手も悪かった。長く使っていても、未だに根本的なところでコンピュータの動作原理は理解できていない。自分で簡単なプログラムを組んだこともなく、学校で本格的な勉強をしたことがないからだ。

 入門書を何冊も買い込んだがいつも2進法や基本回路のあたりで挫折してしまい、それ以上先に進まない。一方、PCの方は技術進歩が著しくインターネット端末となり映像も扱えるようになりますます理解不可能なものとなってしまっている。

 そのような筆者にとって津田先生が開発した「NT-ProcessorⅤ1」は驚異的な「教育ツール」だ。

 ごく簡単に言えば、普通に使われている表計算ソフト「エクセル」上でプログラムを書くことで、オリジナルなLSIが作れてしまうのである。しかも「Visual Elite」(ビジュアルエリート」というソフトで、書いているプログラムに対応するLSIの回路が視覚的にわかるようになっているというスグレものなのだ。

――LSIというと大メーカーしか作れないと思っていましたが、どうして可能になったのですか?

 「15年ほど前に米国で開発されたFPGAというデバイスが可能にしました。Field Programmable Gate Arrayの略で"書き換え可能型論理LSI"といいます。これができたのはフラッシュメモリのお陰です。今や誰もが使っているUSBメモリに使われているものと同じです。この集積度があがったフラッシュメモリの中に、論理回路すなわちコンピュータができてしまうのです」

 津田先生は旧・電電公社に入社し、武蔵野電気通信研究所に約23年在籍し、大型コンピュータのパーツ関連の研究やLSIの設計、インターネットを使ったサービス提供などの開発に従事されてきた。

開発したツールを示す津田教授――それだけ長い間、コンピュータ関連の研究をされてくると内容もどんどん変わってきたでしょうね?