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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

量子工学からレーザー、そして半導体へ

カテゴリ:電気電子工学科
2012.01.07
 

電気電子工学科 井田 次郎 教授 井田先生は自ら「日本がシリコン半導体の黄金期であった90年代、企業にて、それ行けどんどんの研究開発と実用化を担当してきました」という。興味深い話がうかがえそうだ。

——東大で物理を学ばれたきっかけは何ですか?

 「とにかく量子力学というものに関心がありました。学生の頃、そもそも自然の認識の仕方において量子力学が出てきたところで考え直さなければならないという議論がでてきました。要するに量子力学ではすべてを波だというわけで、物質や粒子でも波だというわけですから。それは一体どういうことなのか。学生時代は確かに若かったので、こうした問題に結構、興味がありました。

 それで、量子力学が一番分かり易く目に見える形で出てくるレーザーに興味を持ったのです。学部、修士ともにレーザー系の研究室にいて、隣の研究室から光を運んで実験するなどというのをやっていました」

——就職もその関係で選ばれたのですか?

 「社会に出るにあたっては、どちらかというと半導体レーザーみたいなもので、インパクトがあるものは何かと考えました。当時はそれがガリウムヒ素という素材だったのです。その大手メーカーが住友電工でした。ガリヒ素をやりたくて住友電工に入ったのですが、シリコンに配属されました(笑)。

 その当時、1980年代ごろですが、鉄鋼メーカーなど、いろいろな業界がLSIに参入しようとしていたのです。住友電工は電線メーカーからシリコン、LSIに参入しようとしたのです。ちょうど、アメリカで技術を学んできた先輩が2人いらっしゃって、私はそこに配属になりました。要するに住友電工としてのシリコン立ち上げに居合わせたのです」

——その頃、作っていたLSIはどんな用途に使われていたのですか?

 「もう忘れてしまいましたけど、それは通信用に1種類だけ製品になっていたみたいな感じですね。その当時、大手電機メーカーはほとんどLSIをやっていて、住友電工はまさに2~3人の世界なのです」

——最初にご苦労された製品なのに忘れてしまうのですか?

 「私は製品というよりも製造のプロセス側ですから、実際の設計とかはみてないのです。どうやって作るかということなのです」

——なるほど。それこそステッパー(半導体製造装置)にどうやって入れていくということですね。

 「そうです。それが肝で転職したと言っても良い。ステッパーを導入しないと、次の話にならないと言う時に、住友電工は全部予算がガリヒ素に行ってしまうことになった。せっかくシリコンをやりかけたのだから、もっとシリコンをやりたいと思ったのです。

 シリコンをやっている大手メーカーを検討したら、大不況の時だったので、大きいところで採用してくれるのは沖と松下電器だけだったのです。ちょうど結婚したばかりだったので、どうせならカミさんの側に戻るかということで、沖に決め、関西から東京に戻ってきました」

——先生は沖電気では超LSI研究センター、プロセス技術センターを経て事業企画部門担当部長などの要職を経験されています。

 「沖電気は交換機がメーンの優良企業でした。私が入ったころはDRAMの大手6社でしたし、技術がしっかりしていました。巨額の投資が必要なDRAMからの撤退後、その判断が正しかったが、非常に厳しい道を歩んでいる。

 私が辞めたのは2008年のリーマン・ショックの時でした。そのちょっと前に半導体部門を売却。それで縁あって私はKITにきたわけです」

「金沢は故郷」と話す井田先生——昔から日本の半導体はメモリばかりで米国のようにパソコンの中心となるCPU(中央演算処理装置)が作れないと言われ続けてきましたが、半導体の現場に長くいらっしゃった先生はどう思われますか?

 「文化的な問題ですかね。ある意味、日本はチームワーク的な要素が強いですね。本当に、いかに作るかというhowの世界は強いですけれど、何を作るかというwhatの世界はチームワークよりも目立つ人がどんどん引っ張ることが重要なのです。

 アメリカのようなCPUやロジック系はどちらかというとwhat系ですよね。メモリはもう中身が決まっていますから製造はhowですよね。howは日本が強いのですがwhatは弱いのです。その背景はやはり文化的なものがあるのでは。日本ではしょせん難しいのかもしれませんが、でも、それは教育から変えていかななくてはいけいということかも知れないですね」

——先生は沖電気でロジック系のデバイスを率いてこられたそうですが、どのような製品に使われたのですか?

 「一番分かり易いのはソニーさんと一緒にプレイステーション第1世代のDRAM混載のLSIチップを初めてやりました。

 私は沖電気側の技術のリーダーでソニーさんがある厚木に行きました。LSIそのものではなく、その製造技術をもとに設計したのです。DRAMというメモリとロジック回路というのは、通常の世界で言うと水と油の関係で一緒にはならないものなのです。なぜかというとロジックのLSIというのはとてもスピードが要るのです。トランジスタも性能を相当意識しなければならない。一方、DRAMはメモリなので、その中に容量というものを作り込まなければならない。そして、容量を作り込もうとすると、どうしてもトランジスタの性能が犠牲となるのです」

体内ヘルスケアシステムも視野に

——そうしたご経験をいかして、今後KITで取り組んで行きたい研究・開発はどんなものですか?

 「沖電気の最後の時にSOI(シリコン・オン・インシュレーター)という技術をやりました。非常に低消費電力で高速対応ができ次世代LSIと言われたもので、沖電気が世界で最初に量産したものです。実はカシオの時計に使われています。メンテナンスフリーで時刻も電波を受けて太陽電池で動く極低消費電力なのです。

 このSOIを使って、センサーネットワークやヘルスケア系に使えないかと考えています。シリコンチップを体に埋め込むインプラント・メディカル・デバイスと言いまして、血圧や体温を常にモニターして異常を知らせたりすることができるのです。こうした方面で何かできないかと考えています」

 学生を指導する井田先生 このインタビューはアップル・コンピュータのステーィーブ・ジョブズ氏が死去する前に行われた。ジョブズ氏死後、優れたリーダーが引っ張る開発の必要性があちこちで指摘されたが、井田先生が話す日米の半導体開発の違いとほとんど同じ内容なのに驚いた。問題は技術ではなく文化なのかもしれない。

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