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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

建築学科 の最近のブログ記事

建築学科 須田 達(たづる) 准教授 神戸市などに多大な被害を与えた兵庫県南部地震は1995年に起きた。当時、現役の新聞記者だった筆者は発生直後から現地入りして取材し惨状を目の当たりにした。この地震をきっかけにして、建築工学研究者の中には理論研究から、より役立つ人命を救う研究に方向転換した方もいる。須田先生はそうした研究者の一人から影響を受けたという。

――先生は伊香保温泉で有名な群馬県渋川市の出身ですが、KITに来られた理由は何かあったのですか?

 「お恥ずかしい話ですが実は高校時代、あまりに勉強してなくて先生に"君は大学に行くべきではない"とまで言われてしまいました。しかも地元の工業大学だけには行きたくないと思ってました。

 そしたら先生が怒ってしまって"お前がそんな贅沢言うな"みたいなことを言われてしまって。"行けるかどうか、受けてみなければわからないだろう"と。それで、あちこち受けて何とか、こちらに受かったというわけです」

――それは、なかなか反骨精神にあふれた高校生でした。博士課程は京都大学に進まれました。何か縁があったのですか?

 「KITの修士を出た時は普通に民間に就職するつもりでした。アカデミックな世界に行くつもりはなかったのです。ところがちょうど就職氷河期で採ってもらえなくて。大手の建材・住宅会社の8次試験ぐらいだったと思いますが、重役面接で落とされてしまいました。

 夏休みも終わる頃でした。何もやる気がなくなって。そしたら4年生の時にお世話になった京都大学の先生が"じゃ、うちに来るか?" と声をかけてくれて。それで無職というか浪人にならなくて済んだというわけです。積極的に選んだ道ではないのです(笑)」

――建築の構造でも木造系を選んだ理由は?

 「あまりよく覚えていないのですが。選んだ研究室が木造系に力を入れていて。いざ調べてみると、いろいろとアカデミックなところが全然解明されていないことがわかりました。これは面白そうだと。

 京大の先生がお酒を飲みながら話してくれたのですが、"日本において木造文化がなくなることはないよ。これからも木造をちゃんと研究しないと地震被害もなくならないし、人命を救えない"と。それで"これはやりがいがあるなと思って、そのままのめり込んでいった感じですね」

――なるほど。

 「元々その先生が振動の先生で、理論の先生です。だから実験もしないし、ずっと解析ばかりする研究だったのです。論文も建築学会よりも数学の学会などに書かれていました。

 その先生が兵庫県南部地震を経験されて、自分の研究があまり役に立っていないことを痛感されたらしいのです。悲惨な状況を目の当たりにして、これは何とかしなくてはいけないと思われて、木造に転向されたのです。そのタイミングでその先生と関わらせていただいたので、今でもずっと一緒に」

外見を保つ耐震化は難しい

――2012年からKITに戻られた。こちらではどんな研究を?

 「KITには木造の先生がいらっしゃいますので、私は建築構法とか建築材料をやることになってます。伝統的な木造建築の耐震性をベースに構法的に考えたり材料的に考えたりしています」

「耐震化は一つ一つ丁寧に」と須田先生――具体的には?

建築学科 山田 圭二郎 准教授 山田先生は現在、建築学科に籍を置かれているが、大学学部の時は土木学科だったという珍しいご経歴だ。いかにして土木から建築に移られたか、その経緯を伺った

――先生はもともと京都大学土木学科のご出身ですが、何か土木に行こうとするきっかけはあったのですか?

 「父親が京大出身だったので憧れていました。元々は建築をやりたかったので、現役の時は建築を受け落ちました。一浪の時、安全を考えて、当時、少し偏差値の低かった土木にしたのです。同じ空間を扱う学問ですし」

――土木学科の中でデザイン関係を勉強しようとしたわけですね。

 「いや、土木も建築と同じように空間をデザインするものだと思って入ったのです。ところが実際に授業でやるのはほぼ力学系の計算ばかりなのですよ(笑)。

 構造物というのは構造のシステムだけを描くわけではなくて、形としてあるではないですか。授業でやるのはシステムの話しかありません。これが実際、どういう橋の形になるのだということはほとんど意識されないので習わないのです」

――それは困りました。

 「これはもうやっていけないと、建築学科に転学科しようかなとも思ったりしたのですが、踏ん切りがつかずズルズルと土木にいました。しかし、土木でもデザインをするという分野が作られていたのです。提唱した方は東京大学出身で東京工業大学の教授をしておられた中村良夫先生です。中村先生の書かれた『風景学入門』を読んで、これだと思いました。

 それで京大の研究室を良く調べると建築と土木が一緒になっている研究室があったのです。教授が建築系で助教授が土木系、そういう研究室があることがわかり、ではそこを目指そうということになったのです」

――調べないと分からないものなのですか?

 「そうなのです。今の学生さんは真面目なので研究室や先生のことを良く調べますが、僕らの頃は、そういう感じはなくて。たまたま3年生の冬休みの読書レポートの課題の1冊に『風景学入門』があって、それを読んで、この分野を知ったのです。4年生のゼミの時は行けなかったのですが、大学院から受け直して無事にその環境地球工学の研究室に行けたのです」

――修士課程に進まれて、どのような研究をされたのですか?

 「修士の時は用水路の研究をしました。京都には多くの用水があります。川から引いてきた水を最終的に個人の家の敷地の中に取り込んで庭の遣り水として使ったりします。そういうパブリックな空間の水をプライベートな空間に流し込むというやり方ですね。

 一例をあげると琵琶湖疏水から引いてきた水が東山の別荘群、庭園群に流れていくネットワークがあります」

――修士の後は?

建築学科 竹内 申一 教授 なんとなく建築デザイン系の先生は高校生時代あたりから建築志望一筋といったイメージがあるが、竹内先生は「妥協に妥協を重ねた末」に建築を目指すことになったそうだ。また本気で建築の勉強をしようと思ったきっかけは米国である建築を見た時からだったという。

――先生はいつ頃から建築を目指されたのですか?

 「絵を描いたりするのが好きで、高校1年の頃に将来は美術大学に行きたいと。具体的には東京藝術大学です。でも高校は進学校でしたし親も教員で堅い家でしたので母親はかなり不安そうでした。

 最初は頑張って絵画か彫刻をやりたいと思って藝大向きの予備校に通い始めたのですが、行って分かったのは上には上があるということ。地元では絵は一番自分が上手いと思っていたのですが、本当に上手い人とはレベルが違うことが分かりました。高2の時に、これは純粋芸術で生きていくのは無理だと」

――自分で気づいて良かったですね(笑)。気づかずにそのまま進む人も多いのに。

 「姉も一浪して受験生だったので、行くなら現役で国立でなくてはならなかった。工業系のデザイナーにも興味があったので、予備校の先生に高2が終わった時に藝大のデザイン科だったら現役で受かりますかと聞いたら、まあ一浪かなと言われてしまいました。どこだったら現役で大丈夫ですかと聞いたら、建築だったら受かるんじゃないかと」

――今だと建築の方が難しそうですが。

 「その建築は二次試験で絵画の試験もあるのですが、物理や数学、英語など学科もあるんですよ。一応、進学校にはいたので勉強はそこそこできたので、じゃ建築受けようかなと(笑)。だから、高3の時は予備校で建築を目指して勉強するクラスに入りました。建築が好きでというよりは、とにかく現役で入れるところが建築科だったのです」

――珍しいケースです。

 「もうだから妥協に妥協を重ねて一応無事合格して入ったのです。大学に入った時点では大きな建築を作ってやろうという野心とかは全然なかった。その頃はバブルの頃でおしゃれなカフェやバーとかブティックなどインテリアデザインが雑誌などで紹介されていました。それで倉俣 史朗さんとか内田 繁さんなどの有名なインテリアデザイナーが活躍されていたので、ちょっと憧れていました」

――そのままだと、インテリアデザインに進まれていたかも。

 「建築をちゃんとやろうと思ったのは大学2年生の夏休みです。親戚が米国転勤でアトランタに住むことになり、遊びに来ないかと誘われました。初めての海外旅行で良い機会なので米国の現代建築を見て回りました。そこで幾つか素晴らしい建築に出会って、建築は良いな、面白いな、こんな可能性のある領域なのだということを初めて認識したのです。それで、きちんと真面目に勉強しようと」

――その時、一番感動した建築は?

建築学科 山岸 邦彰 准教授 山岸先生はKIT教員録の自己紹介欄に「幼少より地震が嫌いであったため、地震に強い建物づくりを目指して建築を志しました」と書かれている。筆者は今まで多くの耐震工学者、建築構造学者に会ってきたが、地震が嫌いだったので耐震を目指したという研究者は初めてだ。

----地震が嫌いになった理由は何かあるのですか?

 「実家は東京の渋谷区にあります。母親が素人ながらも建築に興味があり、方眼紙と鉛筆を片手に家の改修図面を何枚も書いていたのを覚えています。家の間取りを考えているうちは良いのですが、暗い家はいやだ、通風がないと駄目だ、ということになり大工さんに頼んであちこちの壁に窓を開けてしまったのです。窓を空けろと指示する方も問題ですが、それに応じた大工にも問題があります。そして、よく揺れる家が出来上がりました(笑)。

 私が高校1年生の時に東京で震度5の地震があったのですが、家は激しく揺れ、私の血の気はひき、大げさですが齢15にしてもう死ぬのかなと思いました。そのような体験があったので自分は地震に強い建物を造りたいと。一般的に、建築を目指す人はデザインをやりたいというのが多いのですが、私の場合、デザインはひとまずおいて、とにかく地震に強く、大きい地震がきても内部の人が生き延びることができるような建築を作りたいという思いが強かったのです」

----それで早稲田大学の建築学科に進まれました。構造では何を学ばれたのですか?

 「4年生でゼミに配属されるのですが、当初は耐震構造や地震動などの研究を行うはずでした。しかし、指導教員に地震の揺れをコントロールできる制震技術のデモンストレーションを目の前で見せられ、これは面白いと飛びつき今に至っています(笑)。

 修士ではスロッシング・ダンパー( sloshing damper )について研究しました。スロッシングとは容器内の液体が揺れ動く様子を言い、コップの中の水が揺れている様を想像してくれれば分かりやすいでしょう。

 建物の上部に液体の入ったタンクを置きます。建物の揺れとスロッシングが同調すると建物の揺れが小さくなります。これがスロッシング・ダンパーの原理です。ただし、地震がないときはタンク内の液体は何の役にも立たず、ただのおもりです。そのためにそれを支える柱が大きくなり不経済です。もう少し高率的なスロッシング・ダンパーはできないかと、容器形状や液体の粘度を変えて実験を行いました。」

「地震嫌いだか地震の研究は好き」と山岸先生----実際に日本でスロッシング・ダンパーが使われた例はあったのですか?

 「ありました。1980年代の終わり頃に、香川県の多度津町にあるゴールドタワーという高さ158mの展望タワーで使われていました」

----水は単なる重りではなくて防火用水などで使えないのですか?

 「使用することは可能です。しかし、飲料用としては品質管理などの面で問題があるのと、水量の調整などのためにメンテナンスが必要になるため、実用的ではありません。また、スロッシング・ダンパーは塔のような揺れの周期が長い構造物だと効果的なのですが、周期の短い10階建てぐらいの建物だと、実はあまり効かないのです」

----その後はどのような研究を?

建築学科 円井 基史(まるい もとふみ)准教授 円井先生はもともと建築デザイン志向。しかし、環境系の研究にシフト、現在はコケを使った屋上緑化や都市緑化などに取り組んでいるという。そのいきさつをうかがった。
 
――先生は鳥取県ご出身で、東京工業大学で建築を専攻されました。何かきっかけはあったのですか?

 「何となく日本一難しい大学を受けてやろうと思って、東京大学とか京都大学を目指していたのですが、前期で失敗し、後期で東工大に受かったのです。

 父親が旧建設省で土木関連の仕事をしていましたので、親は土木に進んで国家公務員になってくれればと言っていましたが、僕は何となく建築を選んでしまった。土木よりは何となくものづくりに近い、何となく格好良いなという。あまり詳しい深い動機はなかったと思いますね」

――しかし、大学院では建築のデザインよりも環境系に進まれます。

 「梅干野 晁(ほやの あきら)先生の授業を受けたのがきっかけです。私は元々自然愛好派で山とか緑が好きだったのです。大学の2,3年生の頃でしょうか。建築は格好良いのですが、自然破壊をしているというか。特にバブルの時や高度成長期は山をどんどん削って宅地開発していたので、環境破壊の一端をあまりやりたくないというのもありました。

 梅干野先生は緑をかなり重視されていました。私自身も建築を離れるという手もあったのですが、建築の中で緑を守る、あるいは緑と共生して住むなどを追求していこうと思ったのです。都市の中の緑とか、あるいは里山とかを人間とうまく関係性を保ちながらやるにはどうするか。そのようなことをやってみたいと。

 梅干野先生が温暖化など都市の熱環境も研究されていたので僕もそれをやっていました。緑は熱の観点からだと意外と説明しやすいのです」

----先生は大学院の時はどのような研究を?

 「修士の時にフィリピンのマニラを対象に居住街区のプロジェクトを提案しました。発展途上国で、かつアジアのモンスーン地域で水とか緑をうまく使い、かつスラム地域のごく低層という条件でした。かなり高密度で住んでいる所をちょっといい具合に改善して、高密度だけど緑や水をうまく使って快適に住めるような居住街区を提案しました。それを熱環境的にも評価して、これだけうまく住めるよという提案も。もともとデザインとか設計が好きだったので、環境ともうまく融合させようとしました」

----修士にしては国際的ですごいですね。ずっとフィリピンに行っていたのですか?

 「ずっとではなく、1回だけです。僕が参加する前から続いている国のプロジェクトがあったのです。それに東工大の建築や土木の研究室が関わっていたのです。研究室の先輩がリモートセンシングや現地調査などをされていたので、それも使わせていただいて。僕が現地に行ったのは1,2週間程度です」

----博士課程はどんな研究を?

建築学科 土田 義郎 教授 日本に長く住んでいると気がつかないが、わが国は街中や駅で無用で無神経な音が溢れているらしい。その日本の都市環境の中で、土田先生は音の持つ重要性に着目、効果的な警告音の出し方や快適な音環境、サウンドスケープについても研究するなど多方面に活躍している

----先生は早稲田大学理工学部建築学科のご出身で、学部の卒論は尾島俊雄教授に指導を受けられたそうです。尾島先生を選ばれた理由は?

 「尾島先生が非常にユニークで面白かったのが一番大きいです。高校時代にローマクラブの"成長の限界"とか、そういう環境問題が非常に言われるようになって、建築をやる上でも、やはり環境のことを考えないといけないだろうということで。

 そのようなことに一番近いことをやっていたのが尾島先生です。当時は首都移転構想とか、いろいろと大きな風呂敷も広げていらっしゃいました」

*尾島俊雄 早大学名誉教授は元々、建築設備の研究者だったが、「熱くなる大都市」(1974年)といった著書で早くからヒートアイランド現象に着目し都市の環境問題に警鐘をならして来た研究者として有名だ。

----というと先生も最初は熱関連の研究をしていたのですか?

 「ええ。学部時代は熱の研究を行っていました。それで一晩中、銀座の街路で地面の温度を測ったりしていました。当然、修士は尾島研に進みたかったのですが、推薦の枠がぎりぎり私の前で終わってしまったので、仕方がなく(笑)受験して東京大学に行きました。それこそ、尾島先生におだてられて"受かるよ。受けてごらん"と。

 東大では音響が専門の安岡正人先生の研究室に入ることになりました。音響の勉強は大学院で始めたようなものです」

----でも、もともと音には興味があったのでは?

 「そうですね。音楽も好きでしたし、環境問題の中には騒音関連の話もあります。修士の時は音だけでなく、心理にもちょっと興味があったのです。高校時代から心理学や精神分析などもごっちゃにして、フロイトや心理学者の宮城音弥氏などの本を読んでいました。上っ面の知識しかなかったのですが、もう少し勉強すれば心理学も面白そうだなと。

 それで安岡研究室の助手の方が景観の分析といった心理的なこともやられていたので、音の心理的分析といった、間をとったようなことをやっていました。まあ、人間には良く分からないところがありますから、そういうところに非常に興味を持っていたのは事実です。いまだに苦労していますから」

----それで東大の助手になられてから、ご縁があって1992年に講師としてKITに来て、助教授を経て2004年から現職になられるわけですね。KITに来られてから、音と環境でどのような研究してこられたのですか?

 「修士のころは、遮音性能の評価みたいな建築寄りの話を中心にやっていました。ドクターでは、ちょっと違うことをやらねばならないと思って、もう少し都市的なレベルでみて音の問題はないかと考え始めたのです。そして音のサインの研究に行き当たったのです。今でこそ、視覚障害者のために信号が音を出すとか、高齢者が踏切の報知の音が聞こえにくいといった問題が話題になっていますが、当時はそんなことはまだ問題になっていませんでした」

----音の聞き違いが事故に繫がることもあるそうですね。

建築学科 永野 紳一郎 教授 2011年3月11日に起きた東日本大震災は日本に未曾有の被害をもたらした。この被害から立ち直るためにも、防災科学の重要性はこれからますます高まる一方だろう。永野先生はKITの地域防災科学研究所で「火災」をキーワードに研究をすすめている。

――先生はもともと建築の「設備」が専門ですね。

 「はい。九州大学で修士をとり、1984年にフジタの技術研究所に入りました。その頃ちょうど、半導体製造の工場に使うクリーンルームの建設が非常に伸びていた時期でした。バブルの前で半導体もどんどん受注が入ってましたし。しかし、クリーンルームというのはまだ、あまりノウハウがあるようでなかったのです。

 フジタの技研には最初からクリーンルームをやるということで入りました。大学では設備関連で、ビル風など風分野をやっていました。今度は室内になるわけですが、当時はシミュレーションがなかったのです。パソコンは世にでたばかりでまだまだ非力でした」

――そうするとあちこちの半導体工場を見て回ってということですか。

 「そういうことではないです。研究所ですから、あくまで研究所が委託を受けてコンサルするという感じです。実務は設計部門がしっかりやっていますので。空調は吹き出しと吸い込みがあって、大体、設計手法は確立されてました。

 後は粉塵の濃度とかを予測して、ホコリがたまるかたまらないかというシミュレーションを、そういうことをやってました。私は入社して1年目は社内でそういう気流解析の技術を勉強しました。その後5年間、東大の生産技術研究所に国内留学というかたちで修業させていただいたのです」

――それは恵まれていますね。当時の生研というと今、国立新美術館があるとこですね。

 「はい、六本木です。生研ではもっと本格的なシミュレーションをしました。すでに日立製のスパコンをつかって。もっとも今からみれば貧弱ですが。

 シミュレーションといっても粉体一個一個の動きを追うのではなく、ガスとして扱います。空気の流れを解けば、それに煙が乗って流れるというのも同じロジックで解けるのです。そのまま解けば、重さは関係なく、とにかく煙の流れをちゃんと制御してやれば、それで微粒子制御になってきます。重いものは下に落ちますが、軽いものは煙と一緒にずっと舞います。だから、それをそのままちゃんと空気全体にその煙が残らないようにする“吹き出し”、“吸い込み”を設計してやれば良いのです」

――要するにクリーンルームのシミュレーションではホコリの溜まらない流れをつくるということですね。そうすると、一方に吹き出しをつくり反対側に吸い込みを作ればいつでもパーッと出て行きそうな気もしますが。

 「おっしゃる通りですが、そう簡単には行かないのです。一番シンプルなのは“層流型”と言い、部屋の天井全面が吹き出しで、一方、床全面を吸い込みにすれば、すっと通りますよね。だからどんなに汚そうと全部吸い込まれます。ただし、それは莫大なコストがかかります。普通の工場ではそこまでお金をかけられないのです。

 それで、吹き出しは天井ですが吸い込みは壁に付けるとかして、100%は無理だが90%とれるような気流設計にしようということになります」

 永野先生はその後、東大・生研からフジタに戻り、ドーム空間や大きな吹き抜けのアトリウム空間の気流を研究、00年よりKITに来られた。

――KITにいらっしゃってからはもっと広く、風一般を研究なさっているわけですか?

建築学科 浦 憲親(うら・のりちか)教授 衣食住、生活全般で自然素材が見直されている。住では「無垢の木」、「漆喰(しっくい)」などがひそかなブームになっているという。この漆喰は消石灰を主原料にした仕上げ材でその下にあるのは土壁だ。浦教授はブームになる以前から土壁の研究に取り組んでいる。

――最初は何を研究されていたのですか?

 「もともとは強いコンクリートを作ろうとしていたのです。普通のコンクリート強度が3-400kg/cm2のところを、3000kg/cm2近くを出そうとしていたのです。材料の練り混ぜとか配合を工夫して、われわれがやったのは2800kg/cm2ぐらい出したのです。

 ものすごく強いので皆で喜んでいたのだけれども、逆にものすごく脆いのです。特にある幅以上の温度差に弱くて割れることがわかった。それからずっと、壁土なのです。やはりすごい強度を売っていたのに、何かちょっとしたことでスパッと割れるということに対してむなしさと言うか、諸行無常を感じてしまったのです」

――それで土壁に?

 「金沢は伝統建築が多いものですから、伝統技術をずっと継承していったら良いのではということで、研究費をいただいて調査を始めました。最初にやったのが左官屋さんです。ちょうど1992-3年です。

 左官屋さんにKITに来てもらって、壁に塗る前の材料の柔らかさを調べるのです。底のない茶筒のような金属の筒に材料をいれて、筒だけを引き上げると中の材料が崩れて円形に広がります。柔らかければ柔らかいほど広く広がるのでその直径を計ります。

 その時、一番感動したのは、土と水の配分を何通りも変え、練り方の回数を変えても、左官屋さんが"そこで良い"という、柔らかさの程度があるのです。

 そこで材料の柔らかさを測ると、材料の広がりは必ず13.5cm。ミリで言うと135mmプラスマイナス10でほとんど収まるのです。

左官屋さんの勘は驚くべきものと浦教授 それを左官屋さんは目で見るだけ目視で判断できるのです。伝統技術の経験とか勘というのは凄いと思いました。これをきっかけに土壁に興味を持つようになりました」

――土壁の土は陶器の土のように特別なものを使うのですか?

建築学科 後藤 正美 教授 来年、2010年は平城遷都1300年ということで奈良大和路ブームが始まっている。奈良にある法隆寺・金堂は世界最古の木造建築であることが示すように、木造建築は日本文化の中心といっても良い。

 一方、鉄やコンクリートによる住宅が増えたとはいえ、現代でもまだまだ身の回りの住宅建築は圧倒的に木造が多い。長い間圧倒的な木造建築群に囲まれながらその耐震性などの科学的研究は驚くほど少なかったという。後藤先生は構造力学の立場から長年、木造建築の研究に携わってきた。

――木造の構造の専門家は少なかったのですか?

 「私が大学院時代の24-25年前は建築基準法の木造関係は農学部関連の先生が主になって作っていたくらいです。なぜかというと農学部には林業があり、木材を多量に使うのは建築ということでした。

 木造の論文を調べると、戦前の1940年ぐらいまではあるのです。そこから67-68年まで、もう木造に関する論文はないのです。材料として木材の論文はあるかもしれませんけど、建築としてのメジャーな論文は投稿されてなかった。

 だから、学問としての建築の世界は戦後、もうコンクリートと鉄の世界で、木造の住宅は大工さんにお任せというような状況だったのです。それが所得倍増や持ち家政策とかで国家プロジェクトが動き出して少し予算がつき始めました。」

――ところが状況がガラッと変わった。

 「きっかけは95年の阪神大震災です。大震災の次の年、極端に言うと外部委託による木造関連の研究費が100倍近くになりました。でもやっぱり林野庁がらみであって、建設担当の国土交通省ではないのですよ(笑)。私もいろいろな委員会に呼ばれたり、耐震実験できるところがないので、KITにやってくれないかというお呼びがかかったりしました。

 もちろん、神戸へ現地調査にも行きました。震災1週間後ですけど建築学会の調査員として入りました。泊まるところがないので、お寺のお堂を借りてしょっちゅうお葬式をしているところの隣で寝袋を持っていって寝ました。ただ、そのお寺は井戸水だったので、断水せずに助かりましたが。」

 阪神・淡路大震災は1995年1月17日、兵庫県南部地震(マグニチュード7.3)によりひき起こされた大災害。死者約6400人のうち約5000人が木造住宅の下敷きで亡くなった。筆者も直後に取材に行き、多くの木造住宅が倒壊しているのを目の当たりにして衝撃を受けた記憶がある。日本に最も多い木造建築の耐震性がきちんと研究されていなかったのだ。

――その流れで伝統建築の耐震性も手がけだしたわけですね?

  建築学科 西村 督 准教授 建築の構造形式の一つにトラス(truss)とよばれるものがある。細くて短い金属や木の部材で三角形を基本として組み合わせていく形式だ。良く知られているように多角形の中で一番単純な三角形が一番力学的に安定している。トラスは一般の住宅やオフィスに使われることはあまりないが、軽くて丈夫なため店舗や展示場など広い空間を覆う必要がある時には屋根の構造として良く使われる。変わったところでは今年、若田さんらが乗り込む予定の国際宇宙ステーションも基本構造はトラスだ。

 西村准教授は大学卒業後、太陽工業株式会社に入社した。同社はこのトラスと空気膜構造を得意とする会社だ。有名なところでは東京ドームの屋根を担当したことで知られ、NHKの「プロジェクトX」でも紹介された。同社はその前1970年の大阪万博でアメリカ館の空気膜構造を手がけ、一躍注目されていた。

 西村准教授は同社にいる10年近くの間に全国津々浦々の現場で100個所以上のトラス建築を設計してきた。金沢では泉が丘のトヨタカローラ営業所だ。夜になるときれいに見える建築だという。

――トラス建築を実際に建てる時に難しいのは?

 「部材はコンピュータのデータを工場に送って、ミリ・オーダーの精度で作られます。
鉄も伸び縮みをしますので、建てる時がどの時期か夏の一番暑い時か、冬の寒い時とかを考えて、どれだけの温度を与えておかないといけないかを考慮しなければなりません」

――設計以外ではどんなお仕事を?

 「会社時代の最後のほうですが、ちょうど2000年に建築基準法が大きく変わりました。そのためにどんな準備をしなければならないかという対策ですね。もうコンピュータで設計して次から次へと仕事をこなさないといけない状況でしたので、そのため早く設計できるツールを開発したりしていました」

 西村准教授の現在の研究テーマは「構造物の安定限界の解明と合理的な構造形態を生成するデザインツールの提案」だ。平たく言えば建物が壊れるぎりぎりの条件はどんなものかを解明し、簡単に合理的な構造を設計できるコンピュータのツールを作ることだ。

 こうした研究に携わるきっかけになったのはある実験だ。1990年に大阪でおこなわれた世界花博で太陽工業が施工したドーム型のパビリオンを博覧会終了後に壊すことになった。しかし、ただ壊すのはもったいないというので実物実験をすることになった。