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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

アメリカで建築デザインに開眼

カテゴリ:建築学科
2017.12.18
 

建築学科 竹内 申一 教授 なんとなく建築デザイン系の先生は高校生時代あたりから建築志望一筋といったイメージがあるが、竹内先生は「妥協に妥協を重ねた末」に建築を目指すことになったそうだ。また本気で建築の勉強をしようと思ったきっかけは米国である建築を見た時からだったという。

――先生はいつ頃から建築を目指されたのですか?

 「絵を描いたりするのが好きで、高校1年の頃に将来は美術大学に行きたいと。具体的には東京藝術大学です。でも高校は進学校でしたし親も教員で堅い家でしたので母親はかなり不安そうでした。

 最初は頑張って絵画か彫刻をやりたいと思って藝大向きの予備校に通い始めたのですが、行って分かったのは上には上があるということ。地元では絵は一番自分が上手いと思っていたのですが、本当に上手い人とはレベルが違うことが分かりました。高2の時に、これは純粋芸術で生きていくのは無理だと」

――自分で気づいて良かったですね(笑)。気づかずにそのまま進む人も多いのに。

 「姉も一浪して受験生だったので、行くなら現役で国立でなくてはならなかった。工業系のデザイナーにも興味があったので、予備校の先生に高2が終わった時に藝大のデザイン科だったら現役で受かりますかと聞いたら、まあ一浪かなと言われてしまいました。どこだったら現役で大丈夫ですかと聞いたら、建築だったら受かるんじゃないかと」

――今だと建築の方が難しそうですが。

 「その建築は二次試験で絵画の試験もあるのですが、物理や数学、英語など学科もあるんですよ。一応、進学校にはいたので勉強はそこそこできたので、じゃ建築受けようかなと(笑)。だから、高3の時は予備校で建築を目指して勉強するクラスに入りました。建築が好きでというよりは、とにかく現役で入れるところが建築科だったのです」

――珍しいケースです。

 「もうだから妥協に妥協を重ねて一応無事合格して入ったのです。大学に入った時点では大きな建築を作ってやろうという野心とかは全然なかった。その頃はバブルの頃でおしゃれなカフェやバーとかブティックなどインテリアデザインが雑誌などで紹介されていました。それで倉俣 史朗さんとか内田 繁さんなどの有名なインテリアデザイナーが活躍されていたので、ちょっと憧れていました」

――そのままだと、インテリアデザインに進まれていたかも。

 「建築をちゃんとやろうと思ったのは大学2年生の夏休みです。親戚が米国転勤でアトランタに住むことになり、遊びに来ないかと誘われました。初めての海外旅行で良い機会なので米国の現代建築を見て回りました。そこで幾つか素晴らしい建築に出会って、建築は良いな、面白いな、こんな可能性のある領域なのだということを初めて認識したのです。それで、きちんと真面目に勉強しようと」

――その時、一番感動した建築は?

 「シカゴのミシガン湖の湖岸に立っている建築で、現代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエのレイクショア・ドライブ・アパートメントですね。

 非常に端正なプロポーションで、最小限の部材で、ある意味でミニマルな美しさのある建築で、緊張感もあってすごいなと思いました。

 その頃、ポストモダン建築というのが隆盛を極めていて、要するに、それまでのモダニズムの非常に抑えられた建築から、もっと何かこうある種の楽しさのようなものを入れ込んだ建築。もう少し表現の豊かさなども加えた建築。そういうものを幾つか見て、それも楽しいなと。日本ではその頃、磯崎新さんが建築を芸術の方向に引っ張っていたと思いますが、そのような動きも非常に面白いなと感じていました」

――それだと藝大にいらして良かった。他の大学ではどうしても工学重視ですから。

 「それがそうでもなくて。先生方はアバンギャルドではなく、どちらかというと正統派で、学生たちはそれこそアバンギャルド一点張りだったので、うちの大学の先生はつまらないな(笑)、そんな感じで。設計の授業で先生にアドバイスを受けたりするのも出席だけが目当てで、全然言うことを聞かないような。いかに先生のアドバイスを離れるかが勝負というか」

――みんな、突っ張っていたんだ。でもデザインの学生はそのくらい元気がなきゃ。先生は大学院を出て有名な伊東豊雄さんの事務所に入りますが、やはり一番憧れていた方なのですか?

 「学生時代はいろいろな事務所でアルバイトしました。一番、行きたい建築家のアトリエがあったのですが、尊敬している先輩に相談したら、その建築家はお年を召していて年齢差もあるのでやめたほうが良い。竹内君は伊東事務所に行きなさいとズバリ言われたんですよ。

 伊東さんはまだ50代前半で、やっと公共建築を手がけ始めたぐらいでした。これからはもう伊東さんの時代だから、伊東さんのところへ行った方が良いよと言われて、"ああ、そうですか"と伊東事務所に行ったのです。その後、伊東さんは本当にコンペにおいて連戦連勝で日本の大型公共建築を手掛けられました。11年間もお世話になり、今でもやりとりはあります」

――伊東事務所で一番印象に残ったお仕事は何ですか?

 「せんだいメディアテークという建築があります。僕は半分くらいしか携わっていないのですが、基本設計から実施設計の最後まで担当しました。現場へは行かなかったのですが。

 それと伊東さんは、例えば新建築のような建築雑誌に作品を発表するときにスタッフに文章を書かせてくれるのです。それで業界では、"ああ、あれを担当した人ね"みたいな感じで通りが良くなります」

 *せんだいメディアテークは2000年に仙台市に完成した図書館、ギャラリーなどの複合施設。内外で高く評価され日本建築学会賞など多くの賞を受賞している。

珠洲市の「しお・CAFE」を説明する竹内先生北陸・金沢から普遍的なデザインを

――縁あってKITに来られて、これからどんな建築を目指していきますか。

 「金沢は文化度が高いというか、普段の生活と伝統とが継承されてきた文化が、かけ離れないで普通にそこにあることに驚きました。

 それと僕にとって金沢21世紀美術館ができた後だったというのが大きい。現代建築も受け入れてくれる土壌もあるのではないかと。

 すでに珠洲市の「しお・CAFE」や「自宅」をデザインしました。その経験から、何かその北陸や金沢などの気候風土の特殊性からのようなところから、まずは着想しながら、それを何か普遍的なテーマや他地域でも活用していけるような建築のテーマに結びつけていけるような考え方、デザインは有り得るのではないかと考え始めています」

設計にはいろいろ苦労したという金沢市内の自宅 残念ながら、字数の関係もあり竹内先生のお話の3分の1も収録できなかった。先生は軽やかに興味深い話を次々と出してくれるのでインタビューも面白かった。KITだけでなく北陸のデザイン界にも新風を吹き込んでくれるパワーがありそうだ。

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