このブログ形式のインタビュー、KITの研究者をウエッブで幅広く紹介していくのが狙いだ。しかし、蜂谷(ハチヤ)教授には開口一番、こう言われてしまった。
「研究紹介ということですが、私は研究者では決してないと思ってます。一度も自分を研究者だと思ったことはないですね」
――デザイナーだと、研究者とは違いますね。
「自分は社会へ出てからいろいろな建築を作ってきた。その建築のデザインをする熱い気持ちとか技術を、今のKITの学生さんに伝えて教えてあげたいなと。また、大学院に進んだ学生には、私はかって国際コンペを取っているのですが、そういうノウハウを含めて教えてあげたいなという気持ちできているわけで。工大へ来て何か研究してますかと言われると・・・」
理系大学の中で建築デザインという分野は明らかに化学や機械等の他学科とは異なっている。今まで、このブログで紹介してきた工大の他の先生方は、自分が「研究者」と呼ばれることに違和感を唱える人はいないだろう。建築の中でも構造や設備は他の工学分野とほとんど同じだが、デザインは「美しさ」というか「芸術性」というか、実験や理論だけでは片付かない何かを抱え、「作品」がすべてだからだ。こちらも、つい「大学の先生=研究者」と思い勝ちだが、確かに実作者である建築家を研究者と呼ぶのは無理があるのかも知れない。となると、単にデザイン活動だけしているところを「~研究室」と呼ぶのも本来はおかしいのだが・・・。
蜂谷教授は大学院修了後、日本を代表する建築家・槇文彦氏の設計事務所に勤務した。槇氏の有名な作品としては「代官山ヒルサイド・テラス」、「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス」や「テレビ朝日」などがある。槇事務所にいた20年以上の間で蜂谷教授が関わったプロジェクトは京都国立近代美術館や福井県立図書館など多数ある。
「中でも思いで深いのは富山です。富山の市民プラザと富山国際会議場。この二つがやはり、故郷でもあったし、現場に常駐管理していましたので。
市民プラザは市民が主役になった複合施設で、町の中にある、ありとあらゆる文化・芸術・教育施設が一つになって小さな町を作っています。その建築を当時、新しかった第3セクター方式を使って地方自治体がやったということでも注目されたのです。
この建築は2年に1回1作品が選ばれる公共建築賞の大賞をもらいました。この頃は槇先生が絶好調の頃でした。先生の作品が最終選考で千駄ヶ谷の東京体育館、千葉の幕張メッセ、この市民プラザと3つも残ったのです。そして有名な体育館、メッセを差し置いて富山市民プラザが選ばれました」
若者が建築を志すのはフランク・ロイド・ライトやル・コルビジュエ、ガウディといった海外の有名建築家の作品を写真や映像で見て感動したことがきっかけというのが多いが、蜂谷教授は実に小学生の頃から建築を目指した。実家の改築に来ていた大工さんの仕事に憧れたのが動機という。
蜂谷教授がさらにユニークなのは建築を志した当初から日本志向、地方志向だった点だ。
「普通、大学ですごく勉強すると海外留学を目指すのですが、私はひたすら日本、しかも地方だということを学生時代から言ってます。国際コンペも新しい時代の郷土館とか、とにかくなんでもかんでもそういう路線で入賞してます。故郷で建築を作りたいというのが大学に行くための目標でしたから。いつもそう言っていたので逆に皆さん、変なやつだと注目してくれていたようです。時代の超先取りだったのですね。
海外旅行も興味なくて、逆に奈良、京都にこもって日本を研究したりして。大学院の終わりに、さすがにヨーロッパぐらい見ておかないとまずいと思って、コンペの賞金を使ってリュック背負って回りましたが・・・」
教育が9割
地域にこだわる次世代の建築家ということで注目され、さまざまな縁で2003年にKITへ。KITに来てからは2008年に完成した石川県立武道館屋内相撲場が最初の作品となる。また、基本計画アドバイザーとして係わっている富山県小矢部市の道の駅計画も今年の夏には完成予定だ。
「こうした設計もアフターファイブと土日でやってます(笑)。でも、それをやってないと昔の感覚を忘れるし、最新の技術を学生に伝えられないので。よく、KITでは教育5で研究が3で社会貢献などが2と言われますが、私の場合、教育が9で残りは1です。KITは水野一郎先生以下設計専門の先生が3人いて、ものすごい勢いで設計の授業をしてますので地方の私立大学の中ではトップレベルでしょうね」
大学で重要なのは多様性だ。「研究者ではない」教授がいて研究者とは別の論理で創造行為を指導する――。蜂谷教授の熱い話を聞いていて、理系大学の中で「デザイン」教える場のあることの必要性を再認識した。