2010年は710年に奈良の都「平城京」が誕生して1300年ということで、奈良では数多くの式典や記念展覧会が行われた。奈良を代表する建築といえば東大寺の大仏殿だろう。その大仏殿に鉄骨が使われていることをご存知だろうか?山崎先生は早稲田大学時代にその事実を発見して修士論文にしたという。
——どうして建築史を研究することになったのですか?
「高校時代、ものを作ることが好きで大学は理系を目指していたのですが歴史も好きでした。いろいろな大学のパンフレットを見ていたら建築学科だけに歴史の課目があることに気がつきました。例のテレビに良く出てくる考古学の先生がいるから、早稲田に行けば海外でいろいろな発掘の調査に行けるかもしれないというくらいの感覚でした。
でも、いざ入学したらエジプトの調査は終わってました。替わってカンボジアやベトナムの遺跡の調査が始まっていましたが、私は結局かかわらずに、研究室が出張している間に日本で留守番して、日本建築をやるようになってました」
——日本建築の中でもどの分野を?
「大学院で研究を始めた時は文化財保存について興味がありました。将来は社寺建築の修理などをしようかと思ってました。そのうち社寺建築の歴史に興味を持ち出したのです。社寺建築といっても、奈良や鎌倉ではなく、ずっと新しいところです。明治以降のお寺や神社というのはあまり研究されていなかったので」
——それは良いところに目を付けました。
「明治以降は新しくて価値がないと思われていたのです。それで修士論文のテーマとして東大寺の大仏殿で明治時代に行われた大規模な修理について調べ出しました。すると、その修理は鉄骨を使った、当時としてはものすごく変わった例であることがわかりました。その時の図面とか史料も見つけることができて論文としてまとめることができたのです。修論としては頑張ったと評価されまして、本格的な研究の道に入っていくことになりました」
——その史料はどこにあったのですか?
「東大寺は一部門として東大寺図書館という図書館を独自に持っていて一般にも開放しているのです。ただ、そこでも皆さん古いところは一生懸命調べていますが近代以降の史料はあまり調べられていません。そこを調べたら、たまたま見つけたのです。
当時はいろいろな計画案があって、やはり大きな建築ですので、それをどのように修理しようかということをいろいろ検討したらしいのです。最初は和風の案と洋風の案とがあったのですが検討した結果、両方とも不採用にしました。さらに検討した結果、中に鉄骨のトラスを組んで、それを外からは見えなくするという案になったのです。
論文を書いたときにはもちろん見る機会はなかったのですが、後で見る機会があって大仏殿の屋根裏に上がらせていただきました。大きな空間に鉄の橋みたいのが架かっていて感動しました」
学生を連れ町中を走り回る
——まさか、そんな“鉄の橋”が大仏様の上に架かっているとは思いませんよね。それで研究の面白さに目覚めたわけですね。
「はい。結局そんな形になりまして、その後も日本建築の研究を続けています。学位を取って、ご縁があってKITに来ました。金沢では特に社寺建築の調査をこれからやっていかなければならないということで。
基本的には金沢は江戸時代以降の町ですので、江戸時代からのお寺さんがたくさんあります。大きな火事で焼けてしまっているところもだいぶあるのですが。それでもちろん歴史の先生はKITにもいらっしゃいましたし、他の大学からも調査はいろいろとされているのです。しかし、町家や武家屋敷の調査の方が評価が高かったので、それが最優先されていてお寺や神社を地元でやる人が必要になったという経緯があります。今は市や県から調査の仕事をいただいて、ずっと町の中を学生を連れて走り回っています」
——今までにいくつぐらいの社寺を調査されたのですか?
「とりあえず去年と今年の2年間だけで40軒やりました。寺町の調査をやっていて、お寺自体はあの地区に70軒ぐらいあるのですが、さすがにそれは全部できないですし、もうコンクリートになってしまったお寺もありますし、今は墓地しか残っていないというお寺もあります。
調査の中心となるのは図面を作ることで、学生を連れていって寸法を測り、帰ってきてそれをCADで図面にするという作業です。学生は本格的な木造の設計を全然やったことがありませんので、実物を見せ、その寸法を測らせてということなので一応何とか描けるようにまで指導します。
その図面を基にして、写真と資料を整理し、それらをまとめて行政に出します。さらに、これは文化的な価値があるとかないとかを評価も付けます。行政の方では文化財にして補助したりとか、街づくりや観光資源として使ったりして広げていってもらいます。過去を調べることで未来につながるわけです」
——調査で面白い社寺建築に出会いましたか?
「一番、珍しいな面白いなと思ったのは金石の専長寺さんというお寺さんの門が非常に変わった形をしていました。一般には全然知られていない建築ですが、これはユニークで秀逸だと思います。
屋根がぐーっとカーブしてまして、しかも真ん中にどんと丸太が一本通してあるのです。同じデザインの建物を見たことがないので、建てた大工さんが誰なのかも分かりません。しかも記録などの史料が何もなくて建てた年代も分かりません。
本堂に続けて建てられたと推定されるので多分18世紀末期ぐらいかなと評価したのですが。
これ、瓦が赤いですよね。金沢の建物というのは黒い光沢のある瓦が金沢らしい瓦だと一般的には言われているのですが、それが初めて葺(ふ)かれるようになったのは明治末期で大正,昭和になって法令で市が推進してもあまり広まらず、ようやく一般住宅に広まったのは戦後のことなのです。それまでの瓦というのは赤いほうが多かったのです。早くに瓦を葺き始めたお宅とかお寺さんはみんな赤い瓦でした。でもなかなか一般には広がらなくて町中はいつまでも板葺きの石置き屋根でした。それが戦後になって瓦を葺くようになると黒い瓦が広まっていて赤と黒が混在するようになったのです」
山崎先生が共同執筆者として石川、富山、福井の3県を担当した「日本近代建築大全、西日本編」(講談社刊)は2010年7月に出版されたばかり。金沢市では尾山神社神門や四高記念文化交流館といった観光名所にもなっている近代建築がやさしく解説されている。ガイドブックとしてもおススメだ。