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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

経営情報学科 の最近のブログ記事

 経営情報学科 齋藤 正史 教授 齋藤先生は留学と仕事で合計約6年間も米国で過ごされた。その間、最先端のコンピュータ事情をフォローされてきた。そこで培われてきた先生独自の考え方は実に刺激的だった。

――先生は神奈川県の名門、湘南高校から東京工業大学に進まれました。湘南高は東京大に進む学生が多いと聞いています。東大ではなくあえて東工大を選ばれたのは何か理由が?

 「当時はいわゆる文系の科目というか、国語とか社会の覚えないといけない科目は大嫌いでして、東工大は理系科目さえできれば入れたのです。今でも覚えるのは苦手です。コンピュータに覚えて教えてもらったりして、最近はスマホに教えてもらっている感じです」

――東工大では情報工学を専攻されました。きっかけはあったのですか?

 「小さい頃はラジオを作ったり、電子工作とかアマチュア無線とかやっていました。そしてワンボードのコンピュータが発売されたりしていました。しかし、買えない。でも、いじりたいので情報工学を選んだ。数学もそこそこ得意だったし。

 東工大は当時どちらかというとLSIを開発したりするハード系の方が盛んだったと思います。その中でソフトウエアを一生懸命やりました。

 任天堂の社長になられたけど亡くなられた岩田聡氏とは同じクラスで仲良くしていました。彼は高校時代からアルバイトでゲームを作っていました。有名な山内溥さんに拾われて任天堂に移ったと言っていました。

 私もその頃ゲーム会社にアルバイトに行っていまして結構いいギャラを頂いていました。当時の思い出としては家庭教師とソフトウエアのバイトで初任給よりもらっていたと思います」

――卒業後、三菱電機に入られます。

 「大学にいくつも募集が来ていて、数社見学に行って、いろいろ悩んだのですけれども、僕はそんなに大きなところというか、最先端、大手のコンピュータ会社、ソフトウエア会社でガチガチにやるよりも、2番手ぐらいにいて自由にやれそうなところの方がいいのではないかと。大学の先生にそう言われまして。三菱電機本体はとうとう計算機そのものは作らなくなりました。そのような会社にあえて入ったということです」

――わざとずらして業界の本命ではないとこを狙われた?

 「そうですね。ずらしてと言うか、僕の実力にはちょうど良かったということだと思っていますけども。あと、三菱の場所が湘南地方の鎌倉にあったということも一つの大きい理由です。当時、ウィンドサーフィンをやっていたので、鎌倉だと何の苦もなく続けられるというのは大きなポイントの一つです。今の学生さんに向かって"もっと良く考えろ"と言っている割にはつまらない理由ですね(笑)。」

――三菱に入られて最初はどんな仕事をされたのですか?

SDGsの推進を!

カテゴリ:経営情報学科
2019.05.07

経営情報学科 平本 督太郎 准教授 KITのホームページを見るとカラフルなデザインで、SDGs(エスディージーズ,Sustainable Development Goals = 持続可能な開発目標)に記事がいろいろ載っている。国連に加盟する193カ国が合意した17の目標、169 のターゲットのことだ。KITは全学をあげて、このSDGsに貢献しようとしている。平本先生はSDGs推進センター長として、その先頭に立っている。

――先生はもともと何を勉強されたのですか?

 「慶應義塾大学の環境情報学科で建築や都市計画等の空間デザインを専攻しました。修士からは政策メディア研究科に移り、その後野村総研在籍中に、メディアデザイン研究科にて博士課程を修了しました。

 いまはビジネスを専門にしていますが、学部・修士ではずっとデザイン畑でやっていたのです。デザインの中では本当に設計することが得意な人もいますが、建築も都市も持続させなくてはならないので、マネジメントの方、いかにお金を回していくのかを考える分野もあるのです。私はどちらかと言うと、このマネジメントを得意としておりまして、非常に企業経営とも近いのです。

 でも、大学院の中に1級建築士を取れるプログラムがあり、私も一応修了していますので、1級建築士を受ける資格はあります(笑)。」

――卒業して野村総研に入られたのは、何か理由が?

 「大学で外資のコンサルタントの方の講義を聞いて興味を持ったのと、父親が三菱総研にいたので研究員の方々との接点が多く興味を持ち始めました。そこへ、たまたま野村総研のインターンシップがあり、応募して参加させてもらったのです。

 野村総研のコンサルタントには、私が当時考えていたことと同じことを考えて、すでにビジネス化されている方がいらっしゃいました。

 どういうことかと言うと、まず社会システム自体を変え、新たなルールを作ることで、結果として民間企業も課題解決に関わりやすくなり、お金も回るような仕組みを公共と民間で協力して作らなければならないという考えです。

 野村総研は実際にいろいろな実績がありましたので、それならば、私は修士で公共関係はやってきたので、公共ではなく民間の経営コンサルタントとして雇ってください、とお願いして入れていただきました」

――ご経歴を見ると、野村総研でのお仕事の1つにBoPビジネスと書いてありますが、これは何ですか? 初めて聞きました。

経営情報学科 石原 正彦 教授 石原先生は先生自身の言葉を借りると、「かつては製薬会社の技術者だったが、現場で"技術を如何に育て、如何に活かすか"を考え出したのがきっかけで、現在は社会科学的アプローチで企業研究に取り組んでいます」という。その経緯を少し詳しくうかがった。

――先生は東京理科大学のご出身ですが、理科大というと一般にはどちらかというと技術系のイメージが強いですが、先生は応用生物学科に進まれました。何か理由があったのですか?

 「大学で何を学びたいかなんて真剣に考える余裕なんかなく、大学受験して受かったところに進んだ、というのが正直なところです。生き物は好きでしたが、高校の生物って暗記ものばかりでどちらかというと苦手意識がありました。

 でも、"バイオはこれからブーム"とも聞いていましたし、応用生物と言って、純粋な生物学よりも幅広いし、当時、分子生物学が始まっていましたし、発酵化学もありましたし生物化学とかもありました。高校で唯一関心が持てた化学とも接点がありそうだったので進んでみようかなと思いました。

 それと、通学でラッシュに巻き込まれるのは避けたくて、都心の大学には通いたくないという理由から、地方に立地する理科大を選びました。」

――大学院は大阪大学の医学研究科に進まれます。これもユニークです。

 「大学で当初は生物が全然分からなかったのですよ。で、自分の専門性を高めたいなと思って、いろいろ勉強していったら、面白いなと思ったのが分子生物学でした。

 ある程度分かってきたら、今度は先進的なことに触れてみたいと。純粋なサイエンスではなく、何か社会の役に立つような接点のあるサイエンスをやりたいと医学を志したのです。

 学部の担当の先生が相談に乗ってくださって、慶応義塾大学の医学部で研究する機会を与えてくれました。ネズミに"がん"を起こさせるがんウイルスの研究をしました」

――学部でそのようなことが可能なのですね。驚きました。

 「それがきっかけで、もっと専門的にやりたいなと思いまして、今度は大阪大学医学部に、医者になるのとは別に医学を学ぶ医科学修士というコースがありまして、そこに入りました。

 その後、インターフェロンの研究をなさっている谷口維紹(たにぐち・ただつぐ)先生に師事して最先端の研究をやり出しました。当時はウイルスの防御機能に関わる転写制御因子に着目した研究が盛んで、研究室内の田中先生にご指導いただきながら、その因子の生理機能を追究していきました。

 その結果、その因子は生体防御機能に関わるだけでなく、発癌とも関係していることを突き止め、幾つか論文を発表させていただいたりしました。」

*転写制御因子とはDNAの遺伝情報をRNAに転写する過程で、促進したり抑制したりするタンパク質の総称

――その後、民間企業に入られます。

経営情報学科 大砂 雅子 教授 KITの先生方は理系男性が圧倒的に多い。その中でバリバリの文系女性の大砂先生は極めて異色だ。しかし、シンガポール、ソウルでの豊富な国際ビジネス経験を基にKITの学生や大学自体のグローバル化の推進役として期待が集まっている。

----先生は金沢泉丘高校から早稲田の西洋史学科に進まれました。西洋史を勉強したいという何かきっかけはあったのですか?

 「大学を選ぶ時って何かあります? 私は全然ありませんでした。いろいろ受けて、そこに受かったからみたいな感じです。

 早稲田というより、すごく東京に出たかったのです。生まれ育って思うに、金沢はとても封建的で、もうこんなところにいたくないと思って。テレビや映画でみる東京にいってみたいと。さらに世界に行ってみたいと、外国のことを知りたいと思って、西洋史を選んだのですけど。フランスとドイツの中世から勉強したのですが、その時、語学の勉強もちょっとしました」

----世界に出たいとジェトロに入られた?

 「世界中に80カ所ぐらい事務所があるので。でも入った時は女性の地位が低くて、雇用機会均等法成立の前だったので。年齢が分かってしまいますね(笑)。雇均法前だったので"3年ぐらいで辞めてください"みたいなことも言われました。仕事は面接の時、"男性の補助職ですよ"とも」

----それは露骨ですね。

 「ええ。普通に結婚して子どもを産んで辞めると思っていたのですけれど、何故かそのまま(笑)。大学卒業後2年で結婚しましたが主人も東京勤めだったので、共働きでずっとこられたのです。仕事は確かにつまらなくて伝票の入力とかファイルの管理とか。でも公的機関なので男性の補助職でも待遇は良いのです。給料は男性と同じで、子どもを産んだら早く帰れるとか」

 *ジェトロについては、熊井泰明先生のインタビュー( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2013/10/post-69.html )を参照して欲しい。職場は違うが同じ法人に勤められていたお二人が偶然KITで教鞭をとることになった。熊井先生はジェトロでは大砂先生の3年先輩だったという。

----海外赴任のきっかけは?

 「その後、子どもを産んで、中学校ぐらいになって手がかからなくなってきたころに雇均法もできてきて、ジェトロでも人手が足りなくなって海外に行く独身の女性職員が出始めたのです。そこで私も上司に子連れ単身赴任で海外に行きたいと申し出て、ビックリされました。主人は、どうぞご自由にという感じです。そしてシンガポールに4年間行かせてもらいました。

 家事は大変でしたのでフィリッピン人のメイドを住み込みで雇いました。日本食を70種類ぐらい教えましたよ。それでお弁当を作ったり、子どもの世話をしてくれて」

----ジェトロの海外の事務所は具体的にどんな仕事をするのですか?

経営情報学科 熊井 泰明(くまい やすあき) 教授 熊井先生は金融のプロで、しかも世界経済の中心のニュ—ヨークで6年間もアナリストとして働いた経験を持つ。「世界が音を立てて変化している」ことを感じ、その熱気を学生と共有したいと言う。

——先生は横浜市立大学文理学部のご出身で、卒業後、JETRO(ジェトロ、日本貿易振興機構)に就職されました。ジェトロは経済産業省所管の独立行政法人で、日本の貿易の振興に関する事業、開発途上国・地域に関する研究など幅広く実施しているところです。ジェトロを志望された理由は?

 「大学では外交官に進む連中も結構いましたし、国際関係論なども盛んだったものですから。やはり海外に出たかったということもありました。それなら、海外に行けるところが良いだろうということで。11年間勤めました。」

——ジェトロから米国に留学されたのですか?

 「はい。入社3年目で行って来いと。それまでジェトロでは基本的に研修は海外の特殊語、タイ語やインドネシア語などの語学研修が中心でした。私の時からそうではなくて、もっと基本的な学問を修めて来いという制度になりました。

 それで、自分で分厚い資料を見ながら、いろいろ調べて米国・イリノイ大学に行くことになりました。実はどんな大学だか行くまで良く分からなかったのです。当時はまだ日本がものすごく注目されていましたので、日本から“行きたい”というと、“では、来て見たら”という学校も結構あったのです。とてもラッキーでした。」

——イリノイ大というとイリノイ州で一番の大都会シカゴにあるのですか?

 「ちょっと離れています。シカゴから南の方へ150kmほど南にあるアーバナ・シャンペーンという町にあります。日本ではアイビーリーグのハーバード大やイエール大ほど有名ではありませんが、公立の名門校でノーベル賞受賞者を11人も出しています。」

 イリノイ大学はコンピューターの開発史上でも重要な位置を占め、古くは並列コンピューターの先駆けとなったILLIAC(イリアック)が有名。また学内に米国立のスパコン研究所(NCSA)があり、インターネットが一般に普及するきっかけとなった元祖ブラウザー、Mosaicはここで開発された。

——イリノイ大では何を勉強されたのですか?

 「計量経済学です。経済のいろいろなデータを使って経済の構造を分析して予測するという作業をずっとしていました。

 要するにここに100円を入れたら一体幾らになって返ってくるのか。あるいは政府が100円使ったら経済はどれくらい大きくなるのだろうということを数字で表していくのが一つの流れです。それと、そのような経済的なシステムをブラックボックスとしてとらえ、その仕組みを明らかにするというような研究が中心でした。

 いきなりコンピューターを渡されて、無我夢中で死ぬほど勉強しましたね。」

——いったん米国からジェトロに戻られて、87年に勧角証券(現みずほ証券)に転職され金融アナリストに従事されます。

経営情報学科 武市 祥司 教授 武市先生はもともと造船工学の出身。しかし、コンピューターを使いこなしているうちにより総合的な社会システム工学やサービス科学といった、より広い世界を目指すようになったという。その背景をうかがった。
 
——先生は東大の船舶海洋工学科のご出身ですが、やはり海へのあこがれが進学された理由ですか?

 「いや、実は建築志望だったのです。東大の内部で学科を決める時に進めなくて。たまたまクラブ活動の先生が船の先生で第二志望として決まったのです。

 でもいざ進んでみると面白かった。25年近く前ですが、コンピューターを使って、いろいろな設計支援、生産支援をやり始めようということが、さまざまな産業で起きてきて造船でもあったのです。というのは船の場合は、第一次オイルショックから非常に不景気で、それが15年ぐらい続きました。このままでは駄目になる、新しいことをやろうというので業界がコンピューターに目をつけたのです。 

 入った研究室は溶接という金属同士をくっつける技術を研究するとこで、業界、学界全体でやっているのも興味を引きました。それで、マスターまで行き、造船会社に就職するつもりで半分ぐらいまで決まりかけていたのですが、多分、人が足りなかったのでしょう。先生がドクターに来ないかと言うので行きました」

——人が足りないとはご謙遜で、武市先生が優秀だったのでしょう。

 「ドクターまでいて、それから別の研究室で助手をつとめ、住友重機という会社に3年ちょっと働きました。そしたら東大でたまたまポストが空いたので戻って来いと声をかけられ、助手として戻ったのです。ただ、このポストは一時的なものでしたので縁あって09年からKITに来たのです。

  実はドクターを取るまでの研究室と、助手をやっていた研究室と、さらに助教授になった研究室が全部、別の研究室なのです。最初は溶接でしたが、助教授をやっていたのは流体関係の研究室でした。10年近く前にアメリカズカップというヨットのF1がありましたが、最後はテクニカルディレクターをやっていた宮田秀明先生の下で研究開発をしていました」

 アメリカズカップは1851年から現在まで続く、世界最高のヨットレースで、参加国の最先端技術のすべてが注ぎ込まれる。日本は1992、1995、2000年の3回、チャレンジしているが優勝はない。以前、インタビューした増山豊先生( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2010/01/post-23.html )もアメリカズカップに関係していらして、武市先生がKITに来られる「縁」となった。

——話が前後してすみません。造船で住友重機というのは申し訳ありませんがあまり聞いたことがないです。住友重機は三菱重工、石川島播磨などに続いて3番目ぐらいですか?

 「いえ、もっと小さいです。ただ歴史があって幕末に幕府が設立した浦賀造船所を、榎本武揚らが明治時代になって浦賀船渠という会社組織にしたのです。私が入社した時にすぐ創立100周年だったので、今は115年くらい。幕府の時代を入れるとさらに40~50年もさかのぼれるらしいです。住友系の機械の会社と合併したりしていますが、実はあまり大きくなくて、20年くらい前、造船大手7社と言われた時代で7番目くらい。大手というより中手のトップぐらい。」

「造船業は大手より中手が元気」と武市先生——なるほど、それであまりうかがったことがないんだ。

 「造船業は今いろいろ再編していて大手よりも中手の方が元気いいのです。大手よりも中手の方が建造量の多いところも何社かあるのです。

 なぜかというと、船の産業は労働集約型なので、人件費がダイレクトに効いてくるのです。船というのは大きく分けると3種類あります。第1に艦艇とよばれる軍艦はアメリカが今でも1番です。第2の客船など付加価値の高い物はヨーロッパが1番。客船は動くホテルといわれ、中の豪華な調度品は他の国では作れない。

 そして第3は鉄鉱石や穀物など荷物を運ぶ船です。日本、中国、韓国が得意なのはこの分野の安い船なのです。昔の数字ですが船の売値の3割から5割が人件費なのです。だから、韓国の人件費が上がったといっても、まだ日本の半分より少し上くらいですし、中国では場所によって違いますがざっと10分の1くらいです」

——それでは日本はかなわないですね。

経営情報学科 鈴木 康允(すずき やすみつ)教授 鈴木教授はKITに迎えられる前、長年にわたってトヨタ自動車で環境研究や幅広い視点にたった環境対策に携わってきた。現在、リコール問題等で苦境に立たされている感があるトヨタだが、鈴木教授からうかがった同社の表には出てこない周到な気配りと長期的な戦略がある限り、この苦境も遅かれ早かれ乗り越えていくのではないかという気がする。

――大学で地球化学を学ばれて自動車会社というのも珍しいのでは。

 「配属されたのは、材料技術部というところです。材料を研究するのかと思っていたら分析をやるところに配属されました。製品環境ということで材料の分析はせずに環境の分析、自動車の排ガスだったり大気環境の分析をやりました。その他、車外騒音や新しい燃料、フロン対策などが全て、製品の環境分野の中に入ってくるのです。その開発推進みたいなことです。

 早く言えば、規制がどういう動きになるか、それを予測して開発をどのくらいの速度でやらなければならないのか。開発をうまく進めるためには、どういう体制というか、人や組織が必要かとか。そういうことをちゃんと準備して企画・推進する部署でした」

――すいぶんと先を見て対処していく会社ですね。

 「結局、公害が騒がれ始めた頃は、どちらかというと企業は国や自治体から"対策をやらされた感"が強いのです。

 工業地帯では町を歩くと、ワイシャツが汚染された空気で真っ黒になると言われました。私たち一般市民は被害者ですけど、大気をもっときれいにしなければいけないということで、規制がどんどん強化され企業はそれに対応したわけです。おかげで今はどこも空気がきれいになりました。この時期は企業はやらされ感が強かったのです。

 ところが、ある時からトヨタはがらっと変わったのです。環境のいろいろな規制来れば来るほど、これは全部ビジネスチャンスだという考えに変わったのです。

 そのような対策をしないともうやっていけないぞ。人、モノ、資金をそのために相当注ぎこんでいきました。そのような先を読んだ対応をしていった結果として、今日のトヨタがあるわけです」

――先生はトヨタで全般的な環境問題を扱っていたのですか?

経営情報学科 加藤 鴻介 教授 パリッとしたスーツの着こなし方、立て板に水の弁舌――。東京・丸の内あたりをさっそうと歩いている商社マンの雰囲気である。それもそのはず加藤教授はつい3年前までIBMで第一線のコンサルタント組織を率いるパートナーを務めていた。世界を相手にしている百戦錬磨の先進企業ビジネスマンたちを説得するにはそれなりの「見た目」も必要なのだろう。

 加藤教授がIBM時代に駆使していたのがナレッジマネジメント(knowledge management, 知識管理または知識経営、以下KMと略)という経営手法だという。

――KMとはどのような考えなのですか?

 「一口で言えば企業の知識、組織の知識をいかに組織として活用するかということなのです。

 人間というのは知識が頭の中にありますよね。大半が頭の中ですよね。あの人は仕事ができても、この人はできないというのはその人の知識によります。でも個人の頭の中にあることは他人には分からない。

 仕事ではベテランは分かっても新人は分からないことがあります。分からないと失敗したり、遅かったり、無駄をしたりと、要するに経営にとって非効率な面がたくさん出てくるわけです。そういうことをできるだけ少なくしましょう、最小化しましょうというのがKMの一つの考え方です。

 その中で、会社の中に今あるものはどこかにおいて使えるようにしましょうという知識共有という観点です。知識共有を進めていくと個人が接することのできる範囲が飛躍的に広がるのです。さらに個人の能力も高まり、今まで3年かからないと一人前になれなかったのが半年でなれたといった事例もあります。」

――具体例を教えていただけますか?