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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

MRJの開発に携わった経験を生かす

2017.07.25
 

航空システム工学科 橋本 和典 教授 橋本先生は三菱重工で航空機の設計に携わり、国産の小型ジェット旅客機、MRJ (MItsubishi Regional Jet, 三菱リージョナルジェット)の開発・設計に関わられていた、バリバリの現役技術者だった。学生たちは授業でも貴重な体験がうかがえそうだ。
 
――橋本先生は教員録の自己紹介で「パイロットになれず」にと書かれていますが、そもそも空に憧れたきっかけは何だったのですか?

 「さあ、何がきっかけだったのでしょう。よく分からないです。本人も分からない(笑)。別に家が飛行場の近くにあったわけでもない。でも飛行機が好きでパイロットに憧れ、いわゆる航空大学の試験を受けて落とされたのです。それで地元の神戸大学工学部に行ったのです」

――でも大学ではグライダー部に入られて一応、空への夢はかなえられた。神戸でグライダーとなるとどこで飛ぶのですか? 場所がなさそうですが?

 「弱小クラブでしたが、木曽川と福井空港で飛んでいました。練習は大体1週間単位で、授業を休んだり、夏休みにまとめて」

――大学の工学部機械工学科では何を学ばれたのですか?

 「原子炉(笑)。熱関係の研究室でした」

――でも、三菱重工に入る時は航空部門を志望した?

 「はい、航空一本で。神戸大学の卒業生は地元志向の人が多くて、三菱重工は人気があったんです。でも三菱重工・神戸造船所の原子力とか兵庫県の高砂製作所とかはみんな希望していたので、競争が激しく希望しても入れないことが多い。逆に航空を希望したので素直に入れました」

――入社したての仕事はどのようなものを?

 「すぐ任されたのが宇宙開発事業団(NASDA, ナスダ)の宇宙往還機(HOPE)の技術提案です。いわゆるオン・ザ・ジョブ・トレーニングで自動着陸のところをやらされました。結局、HOPE自身はものにならなかったのですが、1年目の航空関連の勉強として大変役に立ちました」

*宇宙往還機(HOPE)はNASDAと航空宇宙技術研究所が1990年代初めから研究開発していた、再利用可能な無人宇宙往還機。米国のスペースシャトルと比べると小型で完全無人操縦で自律飛行を行える。数度にわたる飛行実験を行ったが実用化にはいたらなかった。

――次に担当されたフルスケール無人機QF-104というのはどんな飛行機ですか?

 「航空自衛隊が持っていたF-104戦闘機を無人機化して、いわゆるターゲット・ドローン、ミサイルの標的にしたものです。10数機作って、全て硫黄島で運用して、全部ミサイルを当て海没させました。浜松市に航空自衛隊広報館がありますが、そこに試作機が1機、飾ってあります」

――さらに、いろいろな仕事をされて最後は MRJとなるわけですね。

 「主に防衛省関連の小さい飛行機ばかりやっていたのですが、予算が途切れた時があって、その時MRJに呼ばれたのです。その実証機の事業が立ち上がらなかったら、そのままMRJにいて、多分、僕はここにいなかったと思います。実証機が立ち上がったので戻してもらい、そこから、ここKITに来ることになるのです」

*MRJは三菱重工の子会社・三菱航空機を筆頭に国産の小型ジェット旅客機として開発・製造が進められている。2015年に初飛行に成功したが運用開始は遅れている。

MRJの説明をする橋本先生――先生としては、ずっとMRJをやりたかったのでは?

 「MRJにいる時は飛行制御システムの設計室長でした。MRJは辛いです。やっぱり。国産と言っても6割が海外のメーカーのもので、英語しか通じない人間と戦わなくてはなりません。しかも、主なやりとりはコストをどうやって削るかなのです。あと、協力をお願いした国内メーカーさんからも断られたのも辛い思い出です」

――飛行機の設計者冥利に尽きるというような思い出はないのですか?

 「設計的にパイロットに一番近いところにいたのですよ。自分はなれなかったからかも知れませんが、パイロットは立派な人が多くて、そういう人たちと接することができたのは楽しかったです。頭が良いし体力があって胆力があって、イケメンが多い。ちょっと別人種と思いましたね」

――そのパイロットは三菱重工で雇用しているのですか?

 「社内パイロットの方にも評価してもらいます。また岐阜に飛行開発実験団というのがあって、そこにテストパイロットがいっぱいいるのです。その人たちにシミュレーターに乗ってもらって評価してもらって調整をしたり。飛行実験が始まったら、どこをどう改修しましょうかと調整していくのです」

――今はMRJの行く末をはらはらしながら見守っているという感じですか?

 「あれだけ頭数があれば何とかなる(笑)。それなりのキャリアを持った人間が一切合切、MRJに行っているのです」

夢考房にはしびれた

――先生は2016年に縁あって、第一線から直接KITに来られました。学生たちにはどのように指導していこうと思われていますか?

 「正直言ってまだ、試行錯誤の日々ですね。一つ言えるのは、設計の現場で使わないことは"こんなものは使わない"と言って省略するか、もう、とりあえず紹介だけするというのは心掛けています。無駄ですからね。

 学生さんから指摘されたことはすぐ直しますね。"声が小さい"と言われれば"分かりました。声を大きくします"といった具合です。

 ここKITの夢考房にはしびれました、趣味が模型工作なもので、正直、ラッキーと思いましたが、ライセンスが要るというのでまだ使っていませんが」

 KITの旅客機模型と橋本先生 橋本先生のMRJ開発に関する裏話は機敏過ぎて、ここに紹介できないものが多い。ただ、授業中には「こぼれ話」として学生たちには紹介しているとのこと。現代航空技術史の貴重な逸話が聞ける学生たちが羨ましい。

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