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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

セキュリティの原点は"本質を見抜く力"

カテゴリ:メディア情報学科
2015.05.01
 

 メディア情報学科 千石 靖 教授 千石先生はコンピュータ・セキュリティの専門家。なのに、実は文系の出身。最初は七尾短期大学、次は金沢経済大学(現・金沢星稜大学)と文系学部で学ばれた。しかも、その後、北陸先端科学技術大学院大学という理系バリバリの大学院に進まれ、博士課程を終え97年からダイレクトにKITに来られた。ユニークな経歴のいきさつをうかがった。

----高校時代からコンピュータがお好きだったのに、最初に入られた大学は七尾短期大学・経営情報学科ですね。

 「高校は富山工業高校の電気科で、コンピュータがすごく好きで、もっと学べるところはないかということで、進路担当の先生から紹介されたのがこの七尾短大だったのです。他の普通の大学にいける学力がなかったのですが、ここならば、できたばかりの短大ですし入りやすいと。私は当時、情報処理技術者試験の二種の資格も持っていたので、今でいうAO入試みたいな感じで入れまして。入学しても実は経済学・経営学は軽くしかやっていなくて、ほとんどコンピュータの勉強ばかりしていました。」

----高校時代に資格を持っていたというのはすごいですね。

 「実はもっと早く中学2年からコンピュータをやっていました。本当にシンプルな98の出る前のNEC製です。最初はありきたりのゲームをやっていたりしたのですが、やはり、そのうちに中の仕組みに興味を持って、自分でプログラムを作ったりして、ゲームを作ったりしていまして。

 当時はゲームが高いのですよ。1本1万円とかして、やはり買ったら骨の髄まで楽しみたいなと。そうすると、裏技を見つけたりや、プログラムをいかにうまく使うかとか。こうしたことを知らないと損をすると思ったのです。せっかく親にねだって買ってもらったパソコンなので。その頃、オモチャ代わりに買ってもらって使っていた友達はいましたが、プログラミングまでやっていたのはほとんどいなかったです。」

----どうやって勉強したのですか?

 「雑誌ですね。"マイコンBASICマガジン"というのがありまして、プログラム・リストが掲載されているのです。それを1つ1つ打ち込んでいくのです。大変でしたが安くゲームを手に入れたいという、その一念で辛抱強く打ってはチェックしていくのです。忍耐力が要ります。エラーが出たら、どこから出たか見当を付けて、その辺を直します。ですからエラーを修正する能力は、その頃から培われました。すごく良い経験でした。」

プログラミングの初歩は雑誌で学んだ----短大の後は金沢経済大学の経済学部に進まれます。

 「理事長が同じで姉妹校みたいな感じでしたので、3年次編入ができ進みやすかったのです。学部の中の商学科で、さらに情報システムコースみたいなコンピュータ中心の勉強ができそうでした。一応、マルクス経済学なども学びましたが全部忘れました(笑)。

 卒業近くなって進路指導の先生から"君は就職に向いていない"と言われました。プログラムを作るとき、すごく凝るのです。"凝ったものを作るのは、納期に追われる職業プログラマーに向いていないから、だから進学しなさい"と」

----それで北陸先端科学技術大学院大学に。

 「ちょうど卒業の時に、大学院大学の北陸先端大がオープンするということでタイミング良く入学できました。先端大の教授にも"君にはだまされたよ"と言われちゃいました。"文系出身と思っていたらばりばりできる"と」

----しかし、北陸出身でコンピュータマニアの高校生だったら真っ直ぐにKITに来ても良いのにわざと避けてこられたような経歴ですね。でも最後はKITに落ち着くとこに落ち着きました(笑)。

 「子どもの頃、すごく体が弱くて、ずっと学校を休んでばかりでした。本当に全然成績が良くなかったので行けるところが限られていたのです。恥ずかしい話、漢字も書けませんでしたし、歴史とかは全然駄目です。数学も英語も駄目。

 ですから、行けるところ、行けるところというぎりぎりの進学だったのです」

----オールマイティな偏差値秀才でなくても大丈夫という意味で、先生はKITの学生の"希望の星"です。

 「そんな私でも勉強すればここまで来られるのだよというのをちゃんと伝えたい、できない学生を引っぱり上げたい。私自身そうやって、いろいろな先生方の御陰でここまで来られましたので。先端大の後も教育したいという思いでここにきました。企業からのヘッドハンティングもあったりしたのですが」

ウイルス対策で日本最初の博士号

----コンピューターウィルス対策やセキュリティを研究し始められたのは何かきっかけがあったのですか?

 「じつは大学4年生の時にウィルスに感染してしまったのです。大学でやっていたクラブでフリーソフトを交換していたら、その中に入っていて。当時ワクチンは持っていなかったのですが、ワクチンを使わずにウィルスに感染していることを分析して見つけたのです。それを大学院に入ってから指導の先生に話したら、"では君、ウィルス対策をやってみないか"と。セキュリティの道が始まったのはそこからですね」

----基本的なことをうかがいますが、ウィルスはどうやって感染するのですか? 素人にはその仕組みがよく分からないのですが。

 「何か悪さをするいたずらぽいプログラムといえます。でも、それだけで他に一切影響を与えないなら、入手した人だけが被害を受けるはずです。通常、ウィルスは他のプログラムに自分自身をコピーして追加してしまうのです。ゲームだと思ってダウンロードして動かすと自分のコンピュータに入ってしまい、さらに他のプログラムに広がるという仕掛けがしてあるのです」

----学生に対策を教えるのも難しそうです。

 「授業の中ではウィルスのプログラムを見せたりはしません。何かあった時に倫理上まずいので。ただ、ウィルスがどのように感染するとか、発病するかなどというデモンストレーションを見せることはあります。

 私が大学院に入ったころはウィルス関連の論文はほとんどなかったです。ワクチンを売る会社が何社かありましたが、研究者のやることではないと思われていた。ただ、海外では研究テーマになり出していた。"日本でもやる価値はあるのでは"と指導の先生から言われて論文を書いたのです。業界では、日本においてウィルス対策で最初に博士号を取ったといわれています」

 「できない学生を引っぱり上げたい」という千石先生 いろいろ示唆に富むお話がうかがえた。中でも先生が中学時代にプログラミングを学んだのが「パソコン雑誌」で独学というのが興味深い。個性的な子どもが才能を伸ばすのは雑誌のような自由な場が必要なのだ。今ではウエッブでさらに可能性が広がったはずだ。

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