中沢先生は電電公社時代からディスプレー研究を核にICT(Information and Communication Technology = 情報通信技術)の激動の発展を身を持って体験してこられたという。先生の体験談は通信技術史としても興味深いお話だ。
――先生はもともと群馬県草津町のご出身ですが、国立の金沢大学工学部電子工学科に入学されました。何か、きっかけはあったのですか?
「単に金沢に来たかったのです(笑)。高校生の頃から、作家の五木寛之さんの小説が好きで結構読んでいました。五木さんが通っていた喫茶店が香林坊にあったりして。受験する前に一度金沢に来て、ここだったら大学4年間住んで勉強したいなと。
結局、大学院も含めて6年間いまして、32年後に縁あってKITに来て、また金沢に戻ってきたという感じです」
――金沢大学のキャンパスは当時、お城の中ですね。
「そうです。すごく楽しかったですよ。大学1~2年の時は 5月の連休とかに 兼六園が無料開放する時がありました。そういった時は兼六園を通り、大学に通っていました。観光客気分でお城に行って勉強していました」
――電子工学専攻で修士を終えられて1983年に日本電信電話公社(現・NTT)に入られます。何か志望理由があったのですか? 先生や先輩に勧められたとか。
「やはり、電電公社は大手ですから、そこへ行けば安心ですし。当然、選んだ理由としてはそれが一番大きいと思います。
入って、東京武蔵野市にある武蔵野電気通信研究所に配属されました。いわゆる武蔵野通研です」
――入られて、何を研究されたのですか?
「当時の状況を説明すると、85年に電電からNTTになりました。全国津々浦々に電話はもう引かれました。次のサービスとして光を使って何かやろうという状況だったのです。もちろん、この頃スマートフォンはなく、パソコンもインターネットも普及していません。
光を使うとどんなサービスがあるかというと、すぐ思い浮かぶのが、ビデオ会議、テレビ会議、テレビ電話といったものです。それでテレビ電話、テレビ会議を次のNTTの目玉にしようと。研究所ですから広いビジョンをもってやっていこうと」
――というと、いわゆる INS(Information Network System = 高度情報通信システム)が話題になっていた頃ですね。記者時代に取材しました。
「そうです。INSとかそういう話です。それでテレビ電話をやるには何が必要かということです。音に比べると当然映像ですから情報量はすごく多いです。ですからその情報量の多いものを小さくするような、いわゆる圧縮する技術も必要でしょう。
それを伝送路に載せて通信する技術も必要でしょう。そして、ではお客さんが実際に使う時に用いるインターフェイスの端末はどうするのという話になったのです。その頃は映像が映るのはテレビに使われているブラウン管、全盛だったのです」
――もう少し時間が経つと、若い人でブラウン管を一度も見たことがないと言う人が出てくるかもしれません。黒電話と同様に。