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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

メディア情報学科 の最近のブログ記事

メディア情報学科 中沢 憲二 教授 中沢先生は電電公社時代からディスプレー研究を核にICT(Information and Communication Technology = 情報通信技術)の激動の発展を身を持って体験してこられたという。先生の体験談は通信技術史としても興味深いお話だ。

――先生はもともと群馬県草津町のご出身ですが、国立の金沢大学工学部電子工学科に入学されました。何か、きっかけはあったのですか?

 「単に金沢に来たかったのです(笑)。高校生の頃から、作家の五木寛之さんの小説が好きで結構読んでいました。五木さんが通っていた喫茶店が香林坊にあったりして。受験する前に一度金沢に来て、ここだったら大学4年間住んで勉強したいなと。

 結局、大学院も含めて6年間いまして、32年後に縁あってKITに来て、また金沢に戻ってきたという感じです」

――金沢大学のキャンパスは当時、お城の中ですね。

 「そうです。すごく楽しかったですよ。大学1~2年の時は 5月の連休とかに 兼六園が無料開放する時がありました。そういった時は兼六園を通り、大学に通っていました。観光客気分でお城に行って勉強していました」

――電子工学専攻で修士を終えられて1983年に日本電信電話公社(現・NTT)に入られます。何か志望理由があったのですか? 先生や先輩に勧められたとか。

 「やはり、電電公社は大手ですから、そこへ行けば安心ですし。当然、選んだ理由としてはそれが一番大きいと思います。

 入って、東京武蔵野市にある武蔵野電気通信研究所に配属されました。いわゆる武蔵野通研です」

――入られて、何を研究されたのですか?

 「当時の状況を説明すると、85年に電電からNTTになりました。全国津々浦々に電話はもう引かれました。次のサービスとして光を使って何かやろうという状況だったのです。もちろん、この頃スマートフォンはなく、パソコンもインターネットも普及していません。
 
 光を使うとどんなサービスがあるかというと、すぐ思い浮かぶのが、ビデオ会議、テレビ会議、テレビ電話といったものです。それでテレビ電話、テレビ会議を次のNTTの目玉にしようと。研究所ですから広いビジョンをもってやっていこうと」

――というと、いわゆる INS(Information Network System = 高度情報通信システム)が話題になっていた頃ですね。記者時代に取材しました。

 「そうです。INSとかそういう話です。それでテレビ電話をやるには何が必要かということです。音に比べると当然映像ですから情報量はすごく多いです。ですからその情報量の多いものを小さくするような、いわゆる圧縮する技術も必要でしょう。

 それを伝送路に載せて通信する技術も必要でしょう。そして、ではお客さんが実際に使う時に用いるインターフェイスの端末はどうするのという話になったのです。その頃は映像が映るのはテレビに使われているブラウン管、全盛だったのです」

――もう少し時間が経つと、若い人でブラウン管を一度も見たことがないと言う人が出てくるかもしれません。黒電話と同様に。

 メディア情報学科 千石 靖 教授 千石先生はコンピュータ・セキュリティの専門家。なのに、実は文系の出身。最初は七尾短期大学、次は金沢経済大学(現・金沢星稜大学)と文系学部で学ばれた。しかも、その後、北陸先端科学技術大学院大学という理系バリバリの大学院に進まれ、博士課程を終え97年からダイレクトにKITに来られた。ユニークな経歴のいきさつをうかがった。

----高校時代からコンピュータがお好きだったのに、最初に入られた大学は七尾短期大学・経営情報学科ですね。

 「高校は富山工業高校の電気科で、コンピュータがすごく好きで、もっと学べるところはないかということで、進路担当の先生から紹介されたのがこの七尾短大だったのです。他の普通の大学にいける学力がなかったのですが、ここならば、できたばかりの短大ですし入りやすいと。私は当時、情報処理技術者試験の二種の資格も持っていたので、今でいうAO入試みたいな感じで入れまして。入学しても実は経済学・経営学は軽くしかやっていなくて、ほとんどコンピュータの勉強ばかりしていました。」

----高校時代に資格を持っていたというのはすごいですね。

 「実はもっと早く中学2年からコンピュータをやっていました。本当にシンプルな98の出る前のNEC製です。最初はありきたりのゲームをやっていたりしたのですが、やはり、そのうちに中の仕組みに興味を持って、自分でプログラムを作ったりして、ゲームを作ったりしていまして。

 当時はゲームが高いのですよ。1本1万円とかして、やはり買ったら骨の髄まで楽しみたいなと。そうすると、裏技を見つけたりや、プログラムをいかにうまく使うかとか。こうしたことを知らないと損をすると思ったのです。せっかく親にねだって買ってもらったパソコンなので。その頃、オモチャ代わりに買ってもらって使っていた友達はいましたが、プログラミングまでやっていたのはほとんどいなかったです。」

----どうやって勉強したのですか?

 「雑誌ですね。"マイコンBASICマガジン"というのがありまして、プログラム・リストが掲載されているのです。それを1つ1つ打ち込んでいくのです。大変でしたが安くゲームを手に入れたいという、その一念で辛抱強く打ってはチェックしていくのです。忍耐力が要ります。エラーが出たら、どこから出たか見当を付けて、その辺を直します。ですからエラーを修正する能力は、その頃から培われました。すごく良い経験でした。」

プログラミングの初歩は雑誌で学んだ----短大の後は金沢経済大学の経済学部に進まれます。

 「理事長が同じで姉妹校みたいな感じでしたので、3年次編入ができ進みやすかったのです。学部の中の商学科で、さらに情報システムコースみたいなコンピュータ中心の勉強ができそうでした。一応、マルクス経済学なども学びましたが全部忘れました(笑)。

 卒業近くなって進路指導の先生から"君は就職に向いていない"と言われました。プログラムを作るとき、すごく凝るのです。"凝ったものを作るのは、納期に追われる職業プログラマーに向いていないから、だから進学しなさい"と」

----それで北陸先端科学技術大学院大学に。

 「ちょうど卒業の時に、大学院大学の北陸先端大がオープンするということでタイミング良く入学できました。先端大の教授にも"君にはだまされたよ"と言われちゃいました。"文系出身と思っていたらばりばりできる"と」

----しかし、北陸出身でコンピュータマニアの高校生だったら真っ直ぐにKITに来ても良いのにわざと避けてこられたような経歴ですね。でも最後はKITに落ち着くとこに落ち着きました(笑)。

メディア情報学科 山岸 芳夫 准教授 山岸先生はもともと素粒子物理の研究者。研究の道具として使うインターネットに没入している間にいつのまにかネットワークの専門家に。ネットの進歩の歴史を身を持って体験していた。

----先生は新潟の出身で、大学は新潟大学の物理ですが、何時頃から物理をやりたいという思いがあったのですか?

 「中学の時からですかね。物理が好きで、その当時はもちろん物理という科目ではないのですが、物理関係の実験をいろいろやっていて、運動方程式を解いたら、物体の未来の位置などがわかるというので。これはスゴイと。そうしたら未来は全部分かってしまうのではないだろうかみたいに考えて。それで物理を勉強していく中で、高校に入り、量子力学の考え方を知ると、実はそうではなくて、未来は誰にも分からないというようなことが分かって、これもまたスゴイと思って。それで物理をずっと研究しようと思ったのです」

----大学院は金沢大学に進まれました。ここでは何を研究されたのですか?

 「素粒子物理の理論の方です。鈴木恒雄先生というクォ−クの閉じ込め問題では世界的な方がおられました。

 物理は大きく実験と理論に分けられます。分野的には素粒子、原子核、物性、宇宙などですが、そういった分野の中でさらに実験・理論と分かれることが多いです。私は素粒子の理論をやっていました。さらに、その理論も、かなり理論的には統一する方向にいく、そして非常に数学的な、フォーマル物理というのですが、これをやる人と、それから実験で確かめられるぐらいのところをやる人がいて、私はその実験で確かめられる、いわゆる現象論の方です」

----博士課程の研究はどんなことを? できるだけ易しくお願いします。

 「昨年2013年のノーベル物理学賞はヒッグス粒子を提唱した学者3人に授与されました。ヒッグス粒子は物質に質量を与えるもので、これで標準模型という現代物理学の基本が確立できたのです。昔はトップクォークという素粒子が見つからなくて、でもそれが93年ぐらいに見つかって、後はヒッグスだけだという話になって、それが最近、スイスのCERN(セルン、欧州原子核研究機構, http://home.web.cern.ch/ )という国際研究所の加速器で発見されたので、ノーベル賞へと結びついたわけです。

 ただ、さらに統一した理論の完成のためには、さらにエネルギーの大きな加速器が必要なので、国際プロジェクトILCが進められています。僕もその大きな加速器で発見できるかも知れないことをずっとやってきています。その一つが超対称性というもので、これが発見されると、統一理論がさらに美しく完成されたものとなるのです」

----先生は金沢大学の後、七尾短期大学に講師として移られます。

 「金沢大の卒業生の様子をみていても、なかなか理論物理だけでメシをを食って行くのは難しそうだなと。

 ちょうどその時期、90年代前半、さきほどのCERNでインターネットに革命が起きました。World Wide Webですね。われわれは素粒子をやっていたので、そういう動きが全部わかっていました。日本で最初のホームページは筑波にあるに素粒子物理学のトップ、高エネルギー研究所(KEK)なのです。当時、素粒子物理の人たちはインターネットのトップランナーだったのです。それで七尾短大に行っていた先輩から声をかけられたのです。コンピューターを教えられるしホームページも作れました」

----素粒子の研究者とWorld Wide Webがどうして結びつくのですか?

出原 立子(いずはら りつこ)准教授 ユニークな研究者が多いKITだが、出原先生の博士論文はひときわ異彩を放っている。題名だけ聞いたら、とても理工系大学の研究者の論文とは思わないだろう。

 題して「三浦梅園“玄語図”の形成原理と図言語体系に関する研究」。三浦梅園は江戸時代の豊後国(現・大分県)の医者だが、仏教書や西洋天文学など膨大な書を読み、独自の世界観、哲学を打ち立てた思想家だ。「玄語」は梅園の思想体系を表したもののひとつ。梅園には一部の識者に熱狂的支持者がいるが、一般的には有名とは言い難い人物だ。

 先生の現在の専門は視覚情報デザイン、CGだ。いったい梅園とどんな繫がりがあるのだろうか?

――先生の研究の出発点は何だったのですか?

 「もともとは学部は東海大学理学部の情報数理学科を出て、コンピューターメーカーのシステムエンジニアをしてました。その頃、私が働いていた時のコンピュータというのはWindowsが出るか出ないかというころで、ビジネス用はインターフェイスは命令語をいちいち打ち込むのが主流でした。

 でもお客さまのシステムを作る中でやはりインターフェイスが非常に重要だと気がついたのです。それで単にコンピュータ科学を学んでいるだけでは足りないと思い、デザインの勉強をしてみたいと考えたのです」

——なるほど、それで美術系の大学に行かれたのですね。

 「それに家族もデザイン系の人間が多いのでもともと興味がありました。父は通産省でデザインに早くから着目しCGなども手がけていました。

 そこで武蔵野美術大学の大学院に入り直し、さらにコンピュータを取り入れたデザインを早くからやっていた神戸芸術工科大学に移りました。その時の学科主任は山口勝弘さんといって日本のメディアアートの先駆者で有名な方でした。他にも杉浦康平さんというグラフィックデザインで高名な作家もいらっしゃいました」

——そうそうたる顔ぶれです。

 「はい。その神戸でCGをやりつつも逆に過去へとさかのぼってみました。インターフェイスで文字言語とそれと対照的な図的言語という、情報を図で表すものに興味を持ちました。図を調べていく内に日本で昔、面白い図を表した人がいることを知りました。それが三浦梅園だったのです。

 梅園が描く図は玄語図と呼ばれ、哲学書の中に文章と図が両方書かれているのです。この図の形が妙に面白いなと思って調べてみたら立体構造を表していることが判ったのです。それでCGを使ってシミュレーションしてみたのです。

 梅園は東洋の思想と西洋の思想の両方を自分の中に吸収して独自の思想を作り、東洋的な陰陽思想を立体化し、それを平面に投影したのではないかというのが私の解釈です」

——それを立体化した模型が韓国の博物館に展示されたそうですね。

 メディア情報学科 鎌田 洋(かまだ ひろし) 教授 90年1月9日付けの読売新聞1面トップは「色や形も認識 考えて動くロボット 無人作業に実用化 富士通 世界に先がけ開発」の見出しで「富士通研究所が人間並みにモノや形や色を識別するだけでなく、状況に応じてどう行動すべきかを瞬時に判断できる知能ロボットの試作に成功した」ことを伝える記事だった。 

 当時、鎌田先生は富士通でこのロボットの開発グループに所属し、最先端の研究に加わっていた。09年、縁あってKITに来られた。

——先生はもともと数学を勉強したのですか?

 「はい、静岡大数学科を出て大学院は広島大に行きました.専門は群論です。富士通に入りましたが、数学科からコンピューターメーカーへというのはあまり正統的なコースではなく普通は工学部から入ります。

 入社の時はコンピュータのOSの開発部隊に入るような話があって、てっきりそちらに行くものと思っていました。新入社員の工場実習で日誌を付けさせられました。その中で大学時代に読んでいた文字認識を数学的に解析する話を書いておいたのです。

 そうしたら、その情報が研究所のほうに行って、研究所がたまたま数学的な素養のある人間を欲しかったようで、うまく結びついて、私は研究所に入ったのです。厳密に言うと、富士通研究所と株式会社富士通とは独立しているのですが、採用は全部富士通株式会社で、研究所へ出向という形になります」

鎌田先生の富士通研究所時代の研究テーマを自己紹介のスライドから列挙すると——

*画像理解(2次元画像からの3次元復元)
 *ロボットビジョン(知能自動車の目)
 *文書認識(手書き、印刷漢字)
 *パターン認識(タブレット入力図形認識)
 *CG(タイム・リアリスティック・ソフトウエア)
 *ヒューマンインターフェース(透明タブレット)
 *教育システム応用(外国人留学生用)

 ロボットビジョンはまさに冒頭、紹介した記事のテーマだ。追突を防ぐ自動車は最新型の自動車に応用されている。その他、3次元画像といい、iPadのようなタブレット端末といい、鎌田先生が研究してきたテーマは今、最もホットな技術と結びついている。

——これらの研究の中で一番、楽しくできたのはどれですか?

 「そういう意味では画像理解は結構好きにやらせていただきました。これは名古屋の中京大学の人工知能高等研究所というところのサテライトラボに1年間だけいたときにやったものです。この研究所は富士通だけでなくいろいろな企業から研究者がきていました。
 
 これはどのような研究かというと、ビデオカメラで撮った物体の2次元画像から3次元画像の物体モデルを復元できるというものです。それも人間が2次元画像の上の任意の点を選ぶだけでシステムが自動的に復元してくれるのです」

——富士通にいらした最後の10年間はR&D戦略室にいらして広報も担当していたそうですね。富士通は昔から技術の広報に熱心で「富士通のテクノロジー読本」という分かり易い本も出していました。

メディア情報学科 永瀬 宏 教授 KITには06年に完成した「情報フロンティア研究所」がある。名前だけ聞くとITの最先端を追求する研究所のように思えるが、ITを駆使して先進的介護医療を提案するのが狙いという。ITはあくまで手段で、来たるべき超高齢化社会に備えるのだ。

 永瀬教授は長い間、NTTで基礎研究に携わり91年からKITに来られ、現在、この研究所の所長だ。

――ITを使った先進医療というとまず病院を考えますが。

 「病院には大きな情報システムがもちろん入っていますし、大型計算機、電子カルテ、パソコンも膨大な数が入っているのですが、どうしても病院の中でクローズしていて外との連携はまずないです。

 医師不足なので、ある病院の先生が別の病院に来ていたりと、お医者さん同士の交流はあるのです。流動的に動いています。ところが患者さんが、ある病院から出て他の病院に行く時、カルテが電子化されて共有されれば便利なのですがまだできていません。できるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。」

――それは残念です。何かとっかかりはないのですか?

 「できそうなところから始めようということで、この前までやっていたのは病院と薬局の電子化です。病院から出る院外処方箋にQRコードを付けて、薬局はそのコードで調剤します。QRコードは携帯電話や航空券などで情報のやり取りに使っている2次元コードです。これを付けることで事前にファックスをしなくてもすみます。薬局ではパソコンで情報をパッと読み取って間違いなくすぐに薬を出せます。このパソコンと連動して粉薬を自動的に調合する機械もあるのです。」

――当然、それは実用化されたのですね。