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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

パラグライダーから無人飛行機へ

2014.12.27
 

航空システム工学科 赤坂 剛史 講師 芸は身を助ける、と言われるが、赤坂先生は学生時代からの趣味のパラグライダー好きがそのまま専門の研究になるという何ともうらやましい話だ。最近の研究はスパイ飛行などで何かと話題になる無人飛行機や、米国では宅配サービスも始まろうとしている無人ヘリコプターと最先端の開発にも繫がっている。

----先生は東海大学航空宇宙学科のご出身です。高校時代から航空関係にあこがれていたのですか?

 「出身地の神奈川県愛川町は米軍厚木基地も近く、飛行機はしょっちゅう見ていました。 そんなに飛行機、飛行機とあこがれたわけではないです。高校3年の時の学科選びの案内をいろいろ見ているうちに航空ってロマンがあるなと、先端の学問であるというキャッチコピーに惹かれました。

 大学に入った時の新入生歓迎会でビラをもらって、パラグライダーのサークルに入りました。これにはまってしまい、バイトでインストラクターをやるまでになりました」

----大学の近所で練習できたのですか?

 「いいえ。長野県の菅平高原まで行きました。神奈川県にも練習できるところはあるのですが、風の条件とかいろいろあるので、うちのサークルは面倒見が良かった菅平に行っていました。雪のない時にスキー場のゲレンデの斜面を使うのです。毎週末に行き、夏休みは2ヶ月ぐらいの合宿です。

 パラグライダーは一応ライセンス制になっていて学科試験もあるのです。航空力学の初歩も教えるので好都合でした。自分が勉強していることとリンクしていたのです。

 当時ですが、バブル時代全盛でパラグライダーもブームになり、各地で事故が多発してしまいました。国内で安全をちゃんと検討しようという専門部会が立ち上がったのです。私が学部4年生になる前でした。

 恩師となる先生が、ちょうどその部会に関係していたため、"東海大でも誰かパラグライダーの研究をするやつがいないか"と探し始め、私にお声がかかり卒論で研究できたのです」

学生を指導する赤坂先生----パラグライダーの事故原因で一番多いのは何ですか?

 「パラグライダーは布とヒモでできているので、グチャッとつぶれると、回復せずに
スピンして落ちてしまうのです。翼がピンと張っていないといけないわけです。風が荒れている所で飛んでしまうと、当然グチャッとなります。ただ、今はだいぶ技術も進歩したので、よほどの風でないとつぶれないです。また、いざと言う時は予備のパラシュートを持っているので、高さが十分にあれば開きます」

----その後もパラグライダーの研究を続けられたのですか?

 「その専門部会が3年間だったのです。学部の卒論で1年間行い、修士で2年行い、ちょうど3年です。ずっとパラグライダーと関わりたいなと思って大学院まで行き、さらに面白くなって博士課程まで行こうと。博士論文をパラグライダーの研究で行ったのはまだ日本ではいませんでした。自慢するわけではありませんが、この業界では一応、名前が知られています」

----研究は具体的にどのようにするのですか?

「修士で行っていたのは、飛行実験で、実際に操縦者にセンサー類を付けて飛んでもらい、そのデータを取って、そこから何が言えるかという運動性能を解析して終わりました。博士ではその先を行って、実際にどのようなメカニズムでパラグライダーがつぶれるのか、どのような状況だと安全に下れるのか、あるいは事故につながって行くのかという手前までのメカニズムをまとめて、それらをトータルで論文にしました。

 現在はコンピュータが進化していて、パラグライダーの柔らかい布が揚力、抗力などの空気力で変形する様子と連動した計算も可能です。私が博士の時はまだ計算式がようやく出来始めた時でした。

 またパラグライダーの飛び方も進化していて、宙返りやヘリコプターみたいにぐるぐる回りながら飛ぶなどのアクロバット飛行をする人もいます。これを解析しようかなとも思っています」

技術は人の役にたたないと意味が無い

----先生は大学を出て川田工業に就職されます。

 「パラグライダーの研究をしていた時、協力してくれた会社が川田工業だったのです。東京大学名誉教授の東(あずま)昭先生が顧問をなさっていた会社です。東先生はパラグライダーの安全を検討する部会のリーダーでした。東先生はトンボとか昆虫の飛び方を航空力学的に分析して本もたくさん書かれている方です。

 川田工業は富山県に本社がある、日本を代表する橋梁メーカーでパラグライダーを作っていたわけではありません。プライベートの小さなヘリコプターを作ろうと、新しい部署を立ち上げたのです。橋にヘリポートを作って、そうすればパーソナルな小さなヘリコプターがどんどん普及するだろうという創業者の夢もあったそうです。それで私は川田工業でずっとヘリコプターの研究開発をしていたのですが、実際の製品化まではいかなかったのです」

----ヘリでは結局儲からないので他の方向にいったわけですか?

 「そうです。パーソナルのヘリをいきなり作るのではなく、まず無人のヘリで色々研究をして、その後で有人に進もうという計画でした。無人のヘリは農薬散布などで需要が出てきたのでいけるのではないかと。無人ヘリは自律飛行で、コンピュータを載せて勝手に飛んでいくようなシステムのプログラムを書いたりしていました。

 でも、そのうちヘリコプター自体もお金にならないとポシャってしまい、ヘリ開発で派生してきたメカトロニクスの技術が、二足歩行のロボットに進んで行きます。またロボットとは別に無人の小型飛行機も開発し始めたのですが、防衛省が技術を認めてくれて、作ってくれないかと話をいただきました」

----それはすごいですね。

 「航空関連の専門の研究所から、隊員が持ち運べるサイズの無人機を作ってくれと。大型のラジコン機といった感じです。情報収集が任務なので可視光や赤外のカメラを搭載してプログラム通り勝手に飛んで帰ってきます。実際に配備され駐屯地にあります。量産・配備の初号機を納めたのが東北大震災の1ヶ月前の2月でした。当然、自衛隊は福島にも持って行きたいという話がでたと思いますが実現しませんでした。この無人飛行機のプロジェクトが終わる頃にその後でKITから話がありこちらに来たというわけです」

 開発中の無人ヘリと赤坂先生 赤坂先生のもう一つの趣味は衣食住のすべての装備を背負って過激な環境を走り抜く極地マラソン(7日間250km)。すでに南極や砂漠で走り抜いた経験を持つ。こちらの話も面白そうで、それはまた別の機会に。

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