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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

カボチャからキノコまで生物の能力を引き出す

カテゴリ:応用バイオ学科
2014.11.10
 

 応用バイオ学科 坂本 香織 准教授坂本先生は高校時代、文系科目が得意で友人に理系と思われていなかったという。その「隠れ理系」がいかにしてバリバリの理系研究者になったかの裏には興味深いストーリーが隠されていた。 

----先生は神戸女学院高校から神戸大学理学部生物学科に進学されました。1995年1月17日の阪神淡路大震災の時はどこにおられたのですか?

 「総合研究大学院大学博士課程の3年で、その頃、愛知県岡崎市の国立基礎生物研究所に籍をおいていました。1月10日に博士論文を提出していたので、一瞬、実家に帰ることも考えたのですが、ずっと論文で書き物をしていたから、実験もしなくてはと共同研究先の東京大学に行こうと決めていました。愛知も多少は揺れたはずですが、早朝なのでぐっすり寝ていて全然気がつきませんでした。神戸が大変なことになっていると連絡頂いて初めて知りました。

 でも、もし帰っていたらすごくやばかったです。実家は明石なので神戸ほど被害はなかったのですが、私の部屋は2段ベッドで、本棚がちゃんと固定していなかった状態だったので、それが倒れてきてベッドはつぶれていました」

----それは運が良かったですね。あの震災で神戸大では学生さんだけで39人も亡くなられていますから。先生が生物系に進まれたのは生き物が好きだったのですか?

 「私は高校のとき、みんなにあまり理系と思われなくて。古文や歴史とかの成績が良かったもので(笑)。隠れ理系のような。興味があったのは生態系のようなものですね。森林とでもいうのかな。そのような所で植物たちが競争して、どんどん変化して行くような植生とかマクロな研究したかったのです。当時DNAなんか見ても全然ピンとこなくて(笑)。それで亜熱帯の森林を見にいったりしました。

 父親に言ったら"そんなことをしているなら、俺はもう金を払わん"と言われまして、では近場でということで神戸大に入ったのです。

 神戸大にはそういう植生の専門で私と話があうような先生がいらっしゃらなくて、逆に教養過程の微生物の先生と仲良くなったりしました。

 私はすごく鈍くさいというか、教養では中国語のクラスだったのですが、そこでは理学部だけでなく農学部の学生も一緒なのです。そのようなクラスで基礎生物実験の授業で解剖があります。農学部の学生たちは早く終わらせたいのでサッサとネズミさんをばらしてチャーッと帰っていくのです。

 でも私はかわいそうというのもあるのですが、せっかく死んだのだからちゃんと見てあげなくてはと丁寧にやって、きれいにスケッチして、終わって顔を上げたら"あれ?誰もいない"みたいな。そんなのでビリになると、授業を担当している先生が、じゃあ一緒にネズミを埋めようかみたいな話になったりしたのです。その先生に免疫の本の輪読会などで教わっているうちに、小さいミクロの世界も悪くないなと」

----修士ではどんな研究をしたのですか?

 「学部の卒論から、植物のカボチャです。6年間カボチャ、ひと筋です(笑)。と言うと農業をやっているみたいで。実際、カボチャを農園で育てたりしたのです。興味は種ですね。

 種というのは中に蓄えていたものが、水分を吸収することで、活性化して根っこが出るのが発芽ですよね。根が出て、次に地上部が出て、光合成ができるようになるまでは、内部の成分を自分で分解して、自分の体を作っているのです。

 細胞の中に液胞という小器官があるのですが、それは、私が大学に入るぐらいまでは、高校の教科書を見ても、細胞のゴミ箱と書かれていたのです。英語でもvacuoleという空洞のようなそんな名前なので。何をやっているのかが分からなくて。どうもタンパク質の分解の働きを持っているというのが分かってきたのが1980年代くらいです。

 そして種の中の液胞は実は分解するのではなく、むしろタンパク質を貯めていると。それが発芽する時に、貯めていたやつを急に分解するようになりつつ、植物の中でも一番大きな細胞小器官になっていくのです。こうしたプロセスを研究していたと言えば良いと思います」

実験施設を点検する坂本先生----神戸大で修士を取られて、今度は博士号を取りに基礎生物研に行き、その後米国ペンシルバニア州立大に留学されています。どんなきっかけがあったのですか?

 「夫は大学院の1年先輩で、彼が1年早く、そこの大学に留学していたので、私も同じところで研究職を見つけようと。探してもらったら夫とは違う研究室ですが同じ建物にある別の研究室でポスドク研究員を探していたので応募したのです。私費留学ですけど、向こうではちゃんと給料が出ました。2年で帰るつもりが結局5年いました」

----そこでもカボチャの種の研究ができたのですか?

 「さすがにもうできません(笑)。今度の研究室は緑藻です。微生物ですが葉緑体を持ち光合成をします。葉緑体への指令は基本的に細胞の核から出ていますよということを証明する実験をしていました。分子遺伝学という聞き慣れない分野になります。

 でも2年過ぎた頃にボスがグラント(研究助成金)を取れなかったから、お前はあと9ケ月と言われまして、困っていたら夫の研究室のボスがお前来いよと言ってくれたのです。
そこでは同じ藻類なのですが、緑藻ではなくシアノバクテリアという種類です。何をしているか分からない遺伝子があった時に、例えばそれをつぶしてみて、表現型がどう変わるかということを研究していました」

キノコも戦っている

----KITにはどのような縁で来られたのですか?

 「夫が国立金沢大学で当時、助手だったかな、職を得たのと、1999年に子どもが生まれていたので、ちょっと産休してもいいかなと(笑)。一緒に日本に帰ってきました。紹介してくれる方がいて、KITには最初、電気系の宮本・平間研究室( http://kitnetblog.kitnet.jp/koizumi/2011/11/post-55.html )にお世話になりました。その後バイオ化学科ができてこちらに移りました」

「生物の能力を引き出したい」と話す坂本先生----現在はどのような研究を?

 「平間研で知ったキノコですね。キノコは不思議な生き物です。シイタケやシメジは抗がん性物質などの生体防御物質や血圧降下物質などを含み健康食品として注目されていますが、一方で、木の難分解性高分子であるリグニンやセルロースを分解していて生きています。つまりキノコは木を食べることができる、これは他のどの生物にもできないことなのでバイオエタノールを作る前処理ができないかといった研究もしています」

 坂本先生はキノコの「生物としての生きざま」にも非常に興味を持っていると言う。違う種類のキノコ同士が会うと、派手な動きはないが「戦っている」のだという。さまざまな種類の研究をされてきたが、まだ高校時代の生態系に関係する関心を持ち続けておられるのは素晴らしい。

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