思いこみというのは恐ろしい。筆者は、廣瀬先生が長い間勤められていた川崎重工業という企業は神奈川県川崎市が発祥の地なので「川崎」というのだと勝手に思いこんでいた。京浜工業地帯の中核である川崎市は重工業が盛んな都市だから、そう思い込むのは無理もない。しかし、今回、先生にインタビューして川崎正蔵という人物が創業者であることを初めて知った。
——先生は京都大学で航空工学を学ばれましたが、航空を志すきっかけは?
「父は海軍士官で機関学校の卒業生でした。秋水というロケット戦闘機の実験に参加していたそうです。小さい頃からそういう話を聞かされていたので、飛行機というものを身近に感じていました。
もう一つインパクトがあったのは、東京オリンピックの時、テレビで見たのですが、ブルーインパルスF86が五輪のマークを空に描いたことです。そして大阪の万国博の会場上空で同じブルーインパルスが万博のマークを描きました。これは自宅の庭から見ていました。高校に入ったばかりでした。ちょうど時代もアポロ宇宙船が月に着陸したことがあったりして航空や宇宙に夢があった時代でした」
——大学ではどのような研究を?
「修士の時は有限要素法をやりました。有限要素法というのは構造物を小さな要素に分けて解析する方法です。それまで構造物が変形しない弾性解析までは良くやられていたのですが、変形してしまう塑性にまでいたるところまで判定して解析するのは新しい分野だったので、それをやっていました。
コンピュータをフルに使う研究ですが、当時、入力はカードで読み込ませたので、いちいちカードを打ち、モデルを作って、またカードを打って、またという感じでした」
——では、飛行機の機体全体の強度という段階ではないのですね?
「はい。もっともっとミクロの世界です。この時は穴開きの薄板を引っ張って、穴の力が集中するところから、材料の降伏が始まっていく、すなわち塑性変形が始まって広がっていく。その状況をシミュレーションして、それと実験結果とを比べて合っている、合っていないという評価をやっていました」
——京大を出てすぐ川崎重工(川重)(http://www.khi.co.jp/company/history/001.html)に就職されました。そのころ川重は飛行機を作っていたのですか?
「川重はずっと戦前から航空機メーカーなのです。ただ、私が入社したころは国産機YS11などのプロジェクトが終わった谷間の時代でした。新しい開発がまだなくて国鉄のコンテナや護衛艦のエンジンの制御パネルなどを作っていました。
現場に実習に行ったら、現場の年輩の先輩たちがコンテナみたいなモノを作ると、自分たちの技量が落ちるのでかなわないと言って嘆いておられました」
——その頃、本社は神奈川県の川崎市にあったのですか?
「いや、川崎というのは川崎正蔵という創立者の名前なのです。鹿児島出身の川崎正蔵が1878年に東京・築地に創設した川崎築地造船所が起源です。その後、松方コレクションで有名な松方幸次郎が1896年に神戸で川崎造船所として受け継ぎました。
私が最初に配属されたのは技術部の構造設計課というところでした。そこは実際の機体の設計に加えて研究もしていました。自衛隊の練習機(後のT4)の開発提案をおこなっているところで、私が最初にやらされたのはT4の水平尾翼に複合材を使って軽くするという、構造の研究でした」
航空業界はダーティな面も
——それ以後、設計課長になられて上級専門職になられるまで、ずっと川重ですか?
「YS11の後継機のYSXという民間機を経済産業省が開発しようというプロジェクトがあって、各社から一人ずつ出向するというので4年間東京に出向したことがあります。
これは開発にそのまま繫がるもので研究的要素はあまりない。事業化の検討だったので民間機の製品企画のような仕事でした。エアライン調査に行ったり、その結果をもってきて、機体の概念設計をやり、それをまたエアラインに持って行って反響調査をしたりと、そのようなことをしていました。
——結局、そのプロジェクトはパートナーとして参加した外国企業の裏切りなど、いろいろあって頓挫してしまうわけですね。先生がその体験から学んだものはありますか?
「飛行機の世界がダーティゲームということは良く分かりました。また日本が外国のメーカーに裏切られたのは日本に独自の技術がなかったからだと思いました。この技術があれば日本は絶対にパートナーとして欠くべからざるものだという、そういう強みがなかったのではないかと。
日本はモノづくりでは定評がありました。高品質なものを納期通りちゃんと納める、しかも適正なコストでというだけではちょっと弱いなと思ったのです。何か特徴的な技術を持たなければいけないと」
——そこで先生はオリジナルな技術を追求されたわけですね?
「旅客機の新しい機首構造です。今の機首は骨組みを作って、それに薄い外板を貼って構造とします。セミモノコック構造というのですが、非常に部品点数も多く複雑なのです。これが炭素繊維強化プラスチック(CFRP)をサンドイッチパネルにして一体化できないだろうかと考えたのです。
中に骨(構造部分)を埋め込むような形にしますので、普通のモノコックとはちょっと違うのです。この研究を5年くらいかけてやりまして実際の試作までしました。ちょうどその時にボーイングの787の前身の7E7というプロジェクトがありましてパートナーを募っていました。川重はこれを提案して、ボーイングは1年間提案した研究がどの程度進むのかとフォローして、最後にシアトルでデザインデビューして発表しました。今から考えると、ボーイングは本気で採用する気はなくて、むしろパートナーを選ぶ時の入学試験みたいでした」
——KITでも引き続きその研究を進めておられるのですか?
「少しずつやって行きたいと。ここでは教育もあるので、航空機構造などの専門課目でやりますし、卒業研究では機体の概念設計をやらせています。手で飛ばせる無人機から300人乗りの旅客機まで自分で好きな飛行機を提案させてセールスポイントから設計仕様を決めて、それを満足させる機体の三面図を描くまでやらせます」
廣瀬先生からうかがった航空業界の話は現在も続いているすさまじい駆け引きの世界だ。これからのエンジニアは視野を広く持たないと真面目一方では生きて行けないのかも知れない。