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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

航空宇宙を次の主力産業に

2011.01.17
 

航空システム工学科 片柳 亮二 教授 片柳先生は長い間、日本を代表する航空機メーカーの三菱重工業で航空機の飛行制御の研究開発に携わってきた。その原点は子供のころの模型飛行機だという。

――どんな模型を作っていたのですか?

 「今、思うと小学校時代だと思うのですが、一歳ぐらい上の遊び相手の方が模型飛行機を作って飛ばすことをしていたので教えてもらいました。当時はラジコンなどはなくてUコンというやつでした。Uコンというの小さいエンジン付きの飛行機をワイヤーで繋ぎ、自分が中心になってグルグル回転飛行をさせるというものです。ヘリコプターもやったけどうまく飛ばなかった。

 飛行機だけでなく秋葉原によく部品を買いに行って、真空管でステレオまで組み立てましたよ。スピーカーボックスを作るのが大変で、分厚いラワン材に丸い大きな穴を開けるのにまず円周にそってドリルで小さな穴を開けて行き、残った部分を糸鋸で切っていくのです。大変手間のかかる作業ですが、中低音スピーカー用の大きな穴と高音用の小さな穴がステレオですから2個ずついるのです」

――ものづくりが本当にお好きだったのですね。

 「大学は早稲田で機械工学だったのですが流体の実験をやったのです。流体でも翼の下に渦ができるのですが、それが面白くて実験をやりたくなりました。回流水槽というのを作りました。回流水槽をいうのは要するに通路を作ってスクリューで水を流すのです。途中に模型を置き流れを見ます。風洞だったら煙ですが、水槽ではアルミ箔を使いました。

 別に自分で作らなくても良かったのですが、作るのが面白かったのです。また数学は決して得意ではなかったのですが翼型理論というのが数学できれいに解けるのも面白かったのです。」

 翼型理論というのは航空機の翼の断面の形状を工夫して効率良く揚力を得るための基礎的な理論だ。片柳先生は航空理論を本格的に学びたくなり、大学院は航空学科のある東大に進む。

――三菱重工に行かれたのは何か縁があったのですか?

 「大学院の先生が技術者だからなるべく企業に行きなさいというのが持論で、先生の知っている方が重工にいたこともあり、どうせ行くのなら技術者がたくさんいるところのほうがいろいろ教えてもらえるだろうと決めました。簡単な発想ですけど。

 重工ではものすごくハッピーでしたね。要するに航空機の開発プロジェクトに4つも関わっているのです。その内の2つは最初の立案から最後の初飛行まで含めて。だいたい10年かかるのです。残りの2つは短期間の開発ですが」

——最初に関わった開発はどんなものですか?

 「T-2CCVというジェット戦闘機の研究機です。それ以前にT−2という日本で初めての超音速の練習機があったのです。T-2は従来の操縦桿を使う油圧で動かすメカニカルなシステムだったのです。それをメカニカル部品を取り除き、コンピュータを置いてセンサーで状況を判断し電線でコントロールするという最新の制御システムを日本で開発しようというのがCCVの狙いでした。CCVというのはControl Configured Vehicleの略で運動能力向上機と訳されます。正式チーム発足は1979年でしたが1~1年半ぐらい前から準備を始めていて、私は入社3年目ぐらいでした」

——若い時に大きなプロジェクトに参加させてもらえたというわけですね。

 「それがハッピーということなのです。配属された部署が準備室になっていて、先輩がその取りまとめをしているので手伝いながらそのまま勉強できる。10年ぐらいやると、主任あたりになる。すると今度は経験者として次のチームに行くわけです」

 片柳先生はさらに80年代いろいろと話題となったF−2の開発に係わることとなる。F−2は当時、次期支援戦闘機(FSX)と呼ばれていた。この機種の選定で、自主開発を主張する日本と対日貿易赤字解消を目的に共同開発を迫る米国が真っ向から対立したのだ。結局、日本は米国のF−16戦闘機をベースとしてF−2を共同開発せざるを得なかった。

——あの頃は政治的な問題でもあり大変だったのでは?

 「われわれ担当として幸いだったのは米国議会が飛行制御のソースコード(プログラム)を出さないと決めてしまうのです。一方的な技術導入ではわれわれはやらしてもらえないのですが、共同開発で肝心のところを出してもらえないならば堂々と自分たちでやれると言えるわけです。それでF−2の機体はF−16ベースなのでその派生型みたいに見えるのですが、中身は全くの新規開発。しかもその飛行制御の技術は前の研究機のやつを全部入れて、全く日本独自のソースコードとなっています。

 当時は開発の段階でものすごく心配されたのです。防衛庁も会社の上の方も、本当に大丈夫かと、研究機だったらいいけどプロの実用機だぞと。さらにアメリカも心配して調査団が何回か来ました。でも、初飛行して非常にうまく行ったので逆に驚いて帰ったのです。多分、驚異と感じたのでは」

研究室にシミュレータと巨大模型

 片柳先生はその他、ミサイルの標的となるQF−104無人機などの開発に参加した後、2003年にKITに来られた。研究室には実際のコックピットを再現したフライトシミュレータと10分の1の巨大旅客機模型を備えている。シミュレータと模型はコンピュータで制御され、飛行機の視界だけでなく機体の尾翼やフラップも連動して動くようになっている。学生たちは飛行機がどのようにして飛んでいるのか実感しながら学べる仕組みだ。

本格的な飛行シミュレータ——日本の航空機業界は

 「これから日本全体がどうやって食べて行くかという話ですが、今、自動車産業が60兆円規模といわれてます。しかし、今後も今までのように世界を席巻できるかは疑問です。

 一方、米国の航空宇宙産業はほぼ同じ60兆円ぐらい、日本は僅か3兆円。米国の20分の1です。ここを伸ばしていかないで、他にどの産業で食べていくのですかと言いたい。まあ、米国と同じになるのは無理としてもせめて半分の30兆円ぐらいにならないと太刀打ちできません。今、町工場で自動車の部品をいっぱい作ってますね。町工場で航空機の部品をどんどん作れるくらいにならないと太刀打ちできないのです。しかし、われわれが大変な思いをして学生を育てているのに国から何の援助もありません。このままだと次世代の産業が育ちませんよ、それで良いのですかということです」

 スケール8分の1の模型は迫力万点 片柳先生の熱弁からは航空機産業をもっと盛んにしたいという熱意がひしひしと伝わってきた。

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