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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

2019年10月 アーカイブ

 経営情報学科 齋藤 正史 教授 齋藤先生は留学と仕事で合計約6年間も米国で過ごされた。その間、最先端のコンピュータ事情をフォローされてきた。そこで培われてきた先生独自の考え方は実に刺激的だった。

――先生は神奈川県の名門、湘南高校から東京工業大学に進まれました。湘南高は東京大に進む学生が多いと聞いています。東大ではなくあえて東工大を選ばれたのは何か理由が?

 「当時はいわゆる文系の科目というか、国語とか社会の覚えないといけない科目は大嫌いでして、東工大は理系科目さえできれば入れたのです。今でも覚えるのは苦手です。コンピュータに覚えて教えてもらったりして、最近はスマホに教えてもらっている感じです」

――東工大では情報工学を専攻されました。きっかけはあったのですか?

 「小さい頃はラジオを作ったり、電子工作とかアマチュア無線とかやっていました。そしてワンボードのコンピュータが発売されたりしていました。しかし、買えない。でも、いじりたいので情報工学を選んだ。数学もそこそこ得意だったし。

 東工大は当時どちらかというとLSIを開発したりするハード系の方が盛んだったと思います。その中でソフトウエアを一生懸命やりました。

 任天堂の社長になられたけど亡くなられた岩田聡氏とは同じクラスで仲良くしていました。彼は高校時代からアルバイトでゲームを作っていました。有名な山内溥さんに拾われて任天堂に移ったと言っていました。

 私もその頃ゲーム会社にアルバイトに行っていまして結構いいギャラを頂いていました。当時の思い出としては家庭教師とソフトウエアのバイトで初任給よりもらっていたと思います」

――卒業後、三菱電機に入られます。

 「大学にいくつも募集が来ていて、数社見学に行って、いろいろ悩んだのですけれども、僕はそんなに大きなところというか、最先端、大手のコンピュータ会社、ソフトウエア会社でガチガチにやるよりも、2番手ぐらいにいて自由にやれそうなところの方がいいのではないかと。大学の先生にそう言われまして。三菱電機本体はとうとう計算機そのものは作らなくなりました。そのような会社にあえて入ったということです」

――わざとずらして業界の本命ではないとこを狙われた?

 「そうですね。ずらしてと言うか、僕の実力にはちょうど良かったということだと思っていますけども。あと、三菱の場所が湘南地方の鎌倉にあったということも一つの大きい理由です。当時、ウィンドサーフィンをやっていたので、鎌倉だと何の苦もなく続けられるというのは大きなポイントの一つです。今の学生さんに向かって"もっと良く考えろ"と言っている割にはつまらない理由ですね(笑)。」

――三菱に入られて最初はどんな仕事をされたのですか?