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小泉成史 (こいずみ せいし)
早稲田大学理工修士。1974年読売新聞入社。1984年マサチューセッツ工科大学ヴァヌ―バー・ブッシュ・フェロー。米国歴史博物館客員研究員。2002-06年テレビ朝日コメンテーター。03年より金沢工業大学客員教授。著書「おススメ博物館」(文春新書)など。

2010年05月 アーカイブ

情報工学科 松尾 和洋 教授 KITの先生は話の面白い方が多いが、松尾先生の体験談は飛び切り面白い。できるだけ、そのまま紹介しよう。

――ご出身はどちらですか?

 「岡山県の玉野です。三井造船の企業城下町で父は造船技師でした。ど田舎だけど工学系の技師などが身の回りにいっぱいいて結構文化水準が高かったです。

 私はかなり早熟で学校の勉強は自分でどんどんやってしまって中学校で大体高校の数学を終えてしまいました。その頃、ノーベル賞の湯川先生とか朝永先生の素粒子の面白い話がいっぱいあったので東大で理論物理をやろうと。

 それと高校の英語の先生に禅宗のお坊さんがいたので禅に凝ったりしました」

――高校生で“禅”とは本当に早熟ですね。

 「さらに東大に受かり東京で下宿を探して歩いている時に、井の頭公園近くで偶然、禅の道場を見つけました。しかも、そこに学生寮があるのでそこに住むことに決めたんです。東大生は私一人でいろいろな大学の学生が12~13人住んでいました。皆でいろいろな議論をして楽しかった。

 しかし、朝4時半に起こされて5時から作務が開始で、6時から1時間座禅です。しかも当番で掃除から食事の準備までやらなければならない。夜も7時から座禅です。

 面白かったけど、何せ眠い(笑)。授業の半分は寝てました。」

――4年間もそこにいたんですか?

 「それが3ヶ月(笑)。成績は急降下するし、これは駄目だと。普通の下宿に移ると今度は反動で遊びたくなりました。友達とマージャン合宿した時は3日連続役満という記録を打ち立てました。それで成績が下がり理論物理に行けなくなり、やむなく地球物理に進んだのです。

早熟でしたと話す松尾教授 ところが、必須授業ではないので私は選択しなかったのですが、海洋実習とかで船に乗らされ、海流の速度を計ったり海水の成分測定をやらされる授業があったりしたので“こんなのは俺の趣味じゃない、もっと頭で勝負したい”と大学院は理論物理に進んだのです」

 大学院で指導を受けたのが久保 亮五 教授(1920―1995 )。教授は物理学会長、学術会議会長などを務め、文化勲章も受けた統計力学・物性物理学の世界的権威だ。

――久保教授の下では何を研究したのですか?

ロボティクス学科 南戸 秀仁(なんと ひでひと)教授 このブログでも紹介してきたようにKITには多くのロボット研究者がいる。南戸教授もその一人だ。しかし、先生の専門はロボットにつきものの機械工学や制御工学ではない。南戸教授の専門は何とセンサーなのだ。しかも匂いを感知するセンサーだという。南戸先生は焦げた匂いを感知して火災を防止するロボットをメーカーと共同で開発した。

――匂いを感知するセンサーの開発のきっかけは?

 「太陽電池などに使われる透明電導膜の研究をしていた時のことです。この膜はジンクオキサイドという酸化物で非常に透明で、しかも電気抵抗が低い。

 学生と一緒に、毎日スパッタリングという薄膜作成法で膜を作って、その電気抵抗を計るのですが、研究室に置いておいたら、電気抵抗がどんどん変化するのです。透明導電膜は当然ながら安定的に抵抗が低く保たれなければならないのですが、置いておくと抵抗が上がってしまうのです。

 それで学生と調べてみるとジンクオキサイドの表面でいろいろなガスが反応して、半導体の中から電子を取ったりすることで抵抗が変わるということが分かったのです。表面反応で抵抗が変わるなら逆にガスセンサーが作れるのではないかということで始めたのです」

――失敗と思われるような偶然の発見の特性を生かす、まさにセレンディピティの瞬間ですね。

 「そうですね。私はいろいろな分野をやってきたので、そういう面では気がつきやすい。透明電導膜を作る仕事としてはネガティブな結果なのです。当時、指導する学生も多かったので、次の年の4年生にテーマとしてガスセンサーをやってみようということで、やり出したのが匂いセンサーの研究をやるきっかけです。

 電導膜の研究でも少しずつ研究費も入るようになって、それで実験装置も買えるようになりました」

――最初に作られたロボットは?