20世紀を代表する技術と言えば、飛行機か自動車だろうが、時代の最先端のテクノロジーが一般人に浸透し広く使われたのはどちらかと問われれば、圧倒的に車のほうに軍配が上がるだろう。その意味で21世紀を代表する技術は携帯電話ということになるかもしれない。80年代後半、筆者は米国特派員時代に生まれて初めて携帯電話を使ったが、公衆電話の受話器をひと周り大きくしたような形で何キロもあるためズシリと重く、よっぽど緊急の時だけ使う特別なシロものだった。それが今や世界中で小学生からお年寄りまで誰でも使う当たり前のモノとなった。
伊東先生は三菱電機でその携帯電話開発の真っ只中にいらした。
——先生は大学を出られてすぐに三菱電機に入られた?
「はい。鎌倉にある研究所に15-16年いました。専門はマイクロ波工学の中でもマイクロ波半導体回路という分野で、非常に高い周波数の回路をやっていました。
1997年から2008年までモバイルターミナル製作所というところで携帯の設計製造を担当しました。多分、累計で2,500万台は生産しています。最後の頃に作った携帯を今でも使ってます。しかし、三菱は携帯をもう作っていません。
——さぞかし忙しかったでしょうね。
「いやもう、大変な忙しさでした。私もそうですが、いろいろなところから人を集めて。始めた頃で年間2機種、最後は年間5-6機種作っていました。
——どうして日本の携帯は衰退したのですか?
「ガラパゴスとか言われていますが、今、世界的なシェアがない。三菱でも1999年から2000年にかけて海外生産を随分増やしました。フランスと米アトランタに工場があって。
ところが、2000年ITバブルが起きました。それで、かなり売れ残りが出たのです。大きな欠損がでて、それから順次すぼめていきました。最盛期で世界シェア大体4%行ったかな。今は日本全体で4%ぐらいですからね。当時、日本で一番大きい携帯メーカーだったのです」
——作り過ぎたということですか?
「はい。どういうことかと言うと、海外の金融から携帯電話の設備会社に多額の投資マネーが出たのです。それで、その時の回線需要予測が実際よりものすごく高めになってしまって。一種のバブルですね。
そうすると携帯メーカーにも発注がどんどん出て、4億台もの需要予測が出ました。その前の年が2億5,000万台でした。ところが実際は3億台にいかなかったので世界で1億台以上の携帯がだぶついてしまったのです。この時、全ての携帯電話メーカは深手を負ったのです。当時はアルカテルや、シーメンスも携帯をやっていたのですが、今は影も形もありません。モトローラやエリクソン(当時)も当時のシェアから凋落し見る影もありません。」
——メーカーとして携帯を作る時、一番難しいのは?