坂本先生は高校時代、文系科目が得意で友人に理系と思われていなかったという。その「隠れ理系」がいかにしてバリバリの理系研究者になったかの裏には興味深いストーリーが隠されていた。
----先生は神戸女学院高校から神戸大学理学部生物学科に進学されました。1995年1月17日の阪神淡路大震災の時はどこにおられたのですか?
「総合研究大学院大学博士課程の3年で、その頃、愛知県岡崎市の国立基礎生物研究所に籍をおいていました。1月10日に博士論文を提出していたので、一瞬、実家に帰ることも考えたのですが、ずっと論文で書き物をしていたから、実験もしなくてはと共同研究先の東京大学に行こうと決めていました。愛知も多少は揺れたはずですが、早朝なのでぐっすり寝ていて全然気がつきませんでした。神戸が大変なことになっていると連絡頂いて初めて知りました。
でも、もし帰っていたらすごくやばかったです。実家は明石なので神戸ほど被害はなかったのですが、私の部屋は2段ベッドで、本棚がちゃんと固定していなかった状態だったので、それが倒れてきてベッドはつぶれていました」
----それは運が良かったですね。あの震災で神戸大では学生さんだけで39人も亡くなられていますから。先生が生物系に進まれたのは生き物が好きだったのですか?
「私は高校のとき、みんなにあまり理系と思われなくて。古文や歴史とかの成績が良かったもので(笑)。隠れ理系のような。興味があったのは生態系のようなものですね。森林とでもいうのかな。そのような所で植物たちが競争して、どんどん変化して行くような植生とかマクロな研究したかったのです。当時DNAなんか見ても全然ピンとこなくて(笑)。それで亜熱帯の森林を見にいったりしました。
父親に言ったら"そんなことをしているなら、俺はもう金を払わん"と言われまして、では近場でということで神戸大に入ったのです。
神戸大にはそういう植生の専門で私と話があうような先生がいらっしゃらなくて、逆に教養過程の微生物の先生と仲良くなったりしました。
私はすごく鈍くさいというか、教養では中国語のクラスだったのですが、そこでは理学部だけでなく農学部の学生も一緒なのです。そのようなクラスで基礎生物実験の授業で解剖があります。農学部の学生たちは早く終わらせたいのでサッサとネズミさんをばらしてチャーッと帰っていくのです。
でも私はかわいそうというのもあるのですが、せっかく死んだのだからちゃんと見てあげなくてはと丁寧にやって、きれいにスケッチして、終わって顔を上げたら"あれ?誰もいない"みたいな。そんなのでビリになると、授業を担当している先生が、じゃあ一緒にネズミを埋めようかみたいな話になったりしたのです。その先生に免疫の本の輪読会などで教わっているうちに、小さいミクロの世界も悪くないなと」
----修士ではどんな研究をしたのですか?