無礼者

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武家屋敷の面影が残る名古屋市東区に、A丘という名の県立高校がある。学校群制度がなかった当時は、T大へ毎年百人以上を送り出す県下有数の進学校であった。前身は旧制愛知一中。一中時代の校長に、マラソンで有名な日比野 寛という人がいて、正門脇には、背筋をしゃんと伸ばして走る彼の銅像が立っている。

 A丘高では、日比野校長が提唱した「全人教育」と称する、生徒達の自主性を徹底的に重んじるというきわめてリベラルな教育方針がとられていた。これは昨今の管理教育とは正反対の方針である。

 

学校は生徒達に対して細かな規制を一切強要しなかった。例えば服装は黒の詰襟学生服と決められてはいたが、制帽は被らなくてもよいし、冬のコートの色形も自由であった。履物にも決まりはなくスニーカーだろうと高級革靴だろうとなんでもかまわない。筆者は一時朴歯の下駄で登校していたことがあった。当時の校舎の廊下は木であり、下駄はごろごろと音をたてたが、これに対してもまったく注意は無かった。

 

年間の行事の計画も、ほとんどは生徒達に任されていた。春と秋には遠足があったが、行き先は各クラスで決めることになっていた。予算の枠内で、それぞれのクラスはホームルームの時間に話し合って、行き先を決めていた。ホームルームにはクラス担任の教師が立ち会っているから、こうして決められた行き先が職員会議で問題となって差し戻しになることは無かった。遠足の当日には、正門前に集まった何台ものバスは、出発時刻ともなるとてんでばらばらの方角へ走り出すことになったが、生徒も教師も、そして近所の住民達も、この学校はそんなものだと誰も不思議には思わなかった。

 

年に2度ほど行われた映画鑑賞会も、観る映画はクラスごとに決めることができた。1年生のとき、ホームルームの時間で大もめにもめて、結局「アラビアのロレンス」に決まったことをよく覚えている。生徒達にも、自分達が全面的に信じてもらっているという一種の誇りがあったから、それを裏切ってポルノ映画に行こうと決めるクラスなどは皆無だったのである。

 

このような教育方針の結果がもっとも顕著に現れたのは、毎秋の体育祭だった。体育祭は縦割り、すなわち各学年の同じ番号のクラスがまとまって行動することになっていた。例えば1年生のとき筆者は3組、つまり103(自称「市丸さん」)だったが、103は203と303とひとまとまりのチームとなって、競技に出場し応援するのだった。スタンドは各縦割りチームごとに机や椅子を並べて作り、その後ろに立看板を作った。立看板には、チームの番号やそれぞれ特徴ある絵を描いた。103のときはミッキーマウスを描いた記憶がある。立看板を作るときは、ベニヤ板や角材、建築用のパネルなどの調達から、大工仕事やペンキ仕事などが必要となるが、このような作業を通して、自由闊達な気風は上級生から下級生達に伝えられた。中学校で高校の受験勉強に追われ、青い顔をして覇気を失っていた一年生は、あまりの自由さに目眩を覚えるほどだった。校歌や応援歌を思い切り大きな声で歌う楽しさを覚えたのはこのときだった。

 

体育祭には、闇の御神輿という伝統があった。これは、応援に使うという名目ではあったが、実のところは1クラス50人のうち僅か5人しかいない女子生徒に対して目立ちたいという男子生徒達のけなげな行動であった。御神輿は、梯子に醤油樽やりんご箱を乗せて、ぺたぺた色を塗って造花などを飾っただけの簡単なものであったが、こっそり作って体育祭当日まで教師に発見されないように、部室などに隠しておく。部室はもちろん各クラブの自主管理に任されており、一種の無法地帯であったから発見される恐れは皆無だった。

 

体育祭当日、御神輿は女子生徒のマスゲームの真ん中めざして、スタンドの陰から一気に飛び出す。マスゲームはたちまち大混乱となるが、学校側も心得たもので、脚の早い教師が水の入ったバケツを持って待機しており、御神輿を追いかけて水をぶっ掛けて担いでいる生徒を取り押さえ、御神輿を押収する。かつてはA丘に学んだ教師も人が多く、彼らもかつては御神輿で暴れた経験を持っているし、これは一種の伝統行事だから、今や遅しと御神輿を待ち焦がれていた見物の生徒達は、生徒と教師の追いかけっこに喝采を浴びせながら笑い転げていたのである。2年生の時には同級のN井君という体操部の優男が女装して御神輿連に混ざって走ったが、翻るスカートの裾を押さえる彼の仕草が何とも艶めかしく、追いかけて来る教師も思わず苦笑していたことをよく覚えている。御神輿連は結局は捕らえられるのだが、軽く注意されるだけでたいした処分は受けなかった。

 

すべての競技の終了後、立看板や押収された御神輿の残骸を校庭の真ん中に積み上げて火を放ち、ファイアストームと称して生徒と教師は火の周りでともに校歌や応援歌など声を張り上げて歌って感激に浸っていた。秋ではあったが、火の周りはとても熱くて、翌日みんなの眉毛がストーブ猫のようにちりちりに焦げていたことを覚えている。大気汚染が騒がれる現在ではとうてい実行できない行事だ。

 

授業も、教師達の個性が現れた印象的なものだった。203と303で担任だった数学のS藤先生は、白髪小柄で玩具の人形のような可愛らしいお爺さんだった。あだ名はもちろん「おじい」。今思えば、定年前なんだからそんなお爺さんではないはずだが、生徒も本人もお爺さんを否定しなかった。おじいは、Gを○で囲んだ「おじい」サインを使っていた。当時はクーラーなどはないから、夏の教室は暑くてたまらない。おじいはパンツ一枚の上に理科実験の白衣を引っかけ、教科書を小脇に挟み、ゴム草履を突っかけて、水の入ったバケツを下げて教室にやってくる。教壇に置かれた机の下に水バケツを置き、椅子に腰掛けてバケツの水に両足を突っ込みながら授業をしていた。教師も生徒も、本当に自由闊達だった。

 

おじいは数学の要点をまとめた手書き謄写版刷りのプリントを作って生徒達に配ってくれた。おじいは東京教育大の理学部数学科の出身だったが、このプリントでは受験数学の枠を越えて、大学の数学の観点から受験数学の問題が解説されており、市販の参考書よりもはるかに見通しがよく、分かり易いものだった。「受験数学の問題は、大学の教養の先生が、大学レベルの数学を使えば簡単に解けるけど、高校数学の範囲内では解くのがちょっと難しい問題を出題するんだ」というのがおじいの持論で、だから上のレベルの数学を知っていれば、受験数学なんてちょろいもんだといって、そこを解説したプリントを作ってくれていたのである。

おじいのプリントは、とても綺麗な手書き文字だった。あるとき、

「先生、このプリントは先生がガリ版の原紙を切られるのですか?」

と尋ねたら、おじいは、

 「きれいーな未亡人が手伝ってくれるんだよ」

と答えた。そのときは、へーほんとかなと半ば信じたりしたが、よくよく考えるとプリントの文字はどことなくおじいの板書の筆跡に似ていた。

 

 大学院を卒業したとき、もうご隠居の身分だったおじいの自宅へ、挨拶に行ったことがある。おじいはあいかわらずおじいだったが、

 「そうか、博士になったか。よかったなぁ」

と親身になって喜んでくれた。教師って有難いものだと、そのときつくづく思った。

 おじいはその後間もなく亡くなった。生徒を全面的に信じてくれたおじい、自由闊達な生き方を身をもって教えてくれたおじいの白衣に水バケツの夏姿は、まぶたの裏に焼きついて今も離れない。

 

このほか、各地に旅して聞いた民謡をすらすらと採譜していた日本史の「へちま」、湯川先生のお弟子だった物理の「まわたり」、黒板用コンパスで出来の悪い生徒の首を絞める数学の「ぼん」、ぼんの親友で世界史の「みわきん」、拝みたくなるほどに有り難い感じの「ほとけさま」、興に入ると教壇でぴょんと飛び上がるいかにも南方系の真っ黒な「スラバヤ殿下」、漢文の「なべしゃく=田邊 爵」と古文の「はやしライス=林 よね」など、ユニークな教師が揃っていた。

 

 生活指導の面ではまったく放任だったが、おじいの数学を始めこれらの教師達の授業は優れたものだった。しかし生徒達は、遊んでいるようには見えたが、自主的に勉強していた。これが高い進学率の秘密だった。しかし、私はA丘で勉強よりももっと大切なものを学んだ。

 

 今は建替えられてしまったが、当時は古いけれど風格のある三階建ての煉瓦作りの校舎で、玄関は西向きだった。市電の停留所からは反対側で、生徒達の多くは裏門から通学していた。名古屋城はA丘の西側だから、武家屋敷町の習いとして、玄関をお城の方向に向けてつけたのかもしれない。その玄関を入ると左右に伸びた廊下と、正面には広い階段があった。そして右手は事務室だった。

 

事務室の前に、一台の公衆電話があった。私は、体育の服装を忘れたり、時間割を間違えて教科書が無いときなどに、ここからお袋に電話して持ってきてもらったりした。この電話機は、ダイヤル式の赤い達磨のような形をしており、当時は一通話十円で時間無制限だった。上に受話器を乗せる部分があって、二つのボッチが受話器で押されてへこむようになっていた。

 

あるとき、誰かがこのボッチを上からがっちゃんと叩くと通話状態となって、十円玉を入れなくても電話をかけられることを発見した。この話は瞬く間に生徒達の間に伝わり、無料通話が頻発することとなった。電話料金は、通話度数に従って学校に請求されてくるが、電話機の中の十円玉の数は足りない。生徒の不始末であるから、父兄から徴収したPTA会費から支払うことになった。こうしてしばらく様子をみることとなったのだが、不正通話は一向になくならなかった。こんなとき、今だったらたちまち厳重注意があって、電話を職員が監視できる場所に移動するとか、いっそ撤去してしまうだろうが、A丘ではそのような措置はとられず、教師達はいつか生徒が自分から反省してくれることを期待していたのだ。 

A丘には、名古屋城にちなんだ鯱光館(ここうかん)という名の体育館があり、ここで行う全校集会をアセンブリと呼んでいた。ある日、臨時のアセンブリが行われた。生徒たちは何ごとかと、鯱光館に集まった。正面の舞台の上には、教師達が並んでいた。校長のK山先生は、公衆電話の不正使用について順々にその非を諭された。不足分がPTA会費から補填されていることは、このとき初めて知った。

校長の話がすんで、臨時アセンブリが終わろうとして、生徒達が解散しようとしていたまさにそのとき、「みわきん」が演題の前に突然進み出て、大声で叫んだ。

「無礼者!」

演題の教師達も、帰ろうとしていた生徒達も、水を打ったように静まりかえった。みわきんは泣いていた。校長の話よりも、みわきんのひと言とあの涙は、生徒たちの胸にどすんと響いた。

 

こんなに信じていた生徒たちに裏切られた。俺の教育は間違っていたのだろうか。これからは管理を厳しくしなければならないのだろうか。いや、けっしてそうではない。大多数の生徒は不正使用なんてしてはいないはずだ。俺の生徒たちはそんなやつじゃない。でも、たった一人であっても不正使用をするような生徒をつくってしまったのは、やはり俺たち教師の責任だ...。では、どうしたらこいつらに分からせることができるだろうか。みわきんの心には、いろんな思いが渦巻いていたことだろう。そして思わず叫んでしまったのだろう。「無礼者」と。

 

みわきんの姿を見て生徒たちは、こんなにも信じてくれていた教師を裏切ってしまったという口惜しさにさいなまれた。教師の真摯さに打たれ、渾身の力を振り絞って諭してくれる教師の涙に揺さぶられた。このアセンブリ以来公衆電話の不正使用が無くなったことは、言うまでもない。

 

 幸田露伴は、なたで不器用に薪を割っている娘文に、こう語っている。

 「働くときに力の出し惜しみするのはしみったれで、醜で、満身の力を籠めてする活動には美がある」

 何事をするにも、たとえ他から与えられ強いられた仕事であっても、いやしくも働くときには渾身の力を振り絞ってやること。そうすればその姿には美が生まれ、それは見る者に伝わる。

 

 あのころのA丘では、教師たちも生徒たちにも、「自らの持ち場に対する一途さ」、「とことんまで相手を信じる幼さ」があった。それが「全人教育」というシステムを支えていたのである。翻って今、教育の現場、さらには仕事の現場には冷たい管理主義という暗黒が立ちこめている。それはとりもなおさず、構成メンバー一人一人のモラルの低下に起因していることは明らかだ。そして、それを正さない限り、いくら厳しく管理したところで、改善されるはずはない。

 

 畢竟、A丘が私に教えたものは、小手先の受験技術ではなくて、生きるときの渾身ということであった。

 

 幸田 文: なた、「父・こんなこと」所収、新潮文庫、こ-3-1、新潮社

 

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