後の原子論の闘将ルードヴィヒ・ボルツマンは,1863年ウィーン大学に入った.ボルツマンはそこでヨーゼフ・シュテファンの指導を受けるが,これがすばらしい環境だった.シュテファンの快活さ,くだけた態度による教師と学生の間に交われた友人同士のような会話.この環境の中でボルツマンは,シュテファン・ボルツマンの法則と呼ばれる成果をあげ,1893年1月のシュテファンの死に続く,1895年7月のロシュミットの死に際して,「私はあれほど親しかった人々の墓を掘りにウィーンに戻ったのだろうか」と述べてウィーンを,そして当時の快活な環境を懐かしんでいる.
後に物理学教室の責任者になったボルツマンは,「小さなエルドベルク」と呼んだ場所にあった理想的な環境を再現しようと努力するが,結果は思わしくない.環境はやはり人によって醸し出されるのだ.思い詰めて自殺するほど超まじめだったボルツマンは,ネルンスト,アレニウスのような,放っておいても自ら大成果をあげるような若者に指針を与えただけだった.快活なマクスウェルが長生きしていたらと惜しまれる.
同様な例はほかにもある.コペンハーゲンのニールス・ボーアの研究所,そして戦前の理化学研究所の仁科研究室.いずれもボーアや仁科芳雄の個性による自由闊達な雰囲気のもとで,大きな成果を上げるとともに多くの俊才を輩出した.戦後の例としては,天才池田敏雄を育てた富士通の研究所があげられるだろう.研究所の理想像として,これらには見習うべきところが多い.
規律があるからこそ自由があるのだが,しかし自由の無いところに進歩が無いことを歴史は証明している.
デヴィッド・リンドリー,松浦俊輔訳:ボルツマンの原子,青土社
コメントする