お初どの、
お元気ですか。メールしたいところですが今は江戸時代、ケータイがありませんので独り言を聞いてください。
おにぎりに私の大好物である塩鮭、昆布の佃煮を添えていただき、とても美味しいお昼を楽しむことができました。食べながら、お初どののことを思いだしまし た。お向かいの板橋屋さんのお嬢さんは、相変わらず意地悪をされますか。性格の悪い人は困ったものですね。あまり気にされませんよう。
浦賀で黒船の見取図を作り、金沢八景まで戻りましたが、日暮れになってしまいましたのでここで一泊し、明日数寄屋橋御門の南町奉行所へ戻ることにしまし た。わずかな日当では立派な宿には泊まれませんが、それでもお風呂につかって、身体を伸ばして眠れると疲れがとれます。有り難いことです。
ところでお初どのは金沢八景ってどことどこかご存じですか。金沢八景は、元禄七年武州金沢の地に立ち寄った中国僧、心越禅師(しんえつぜんし)が、能見堂 からの風景が故郷中国の瀟湘(しょうしょう)八景にそっくりであると絶賛したことから金沢八景と名付けられたものです。 瀟湘とは、中国湖南省(こなん しょう)の瀟江(しょうこう)と湘江(しょうこう)と呼ばれる川が合流して洞庭湖に注ぐあたりのことです。
金沢八景とは、1 洲崎の晴嵐(すさきのせいらん)、2 瀬戸の秋月(せとのしゅうげつ)、3 小泉の夜雨(こずみのやう)、4 乙舳の帰帆(おっともの きはん)、5 平潟の落雁(ひらかたのらくがん)、6 野島の夕照(のじまのせきしょう)、7 内川の暮雪(うちかわのぼせつ)、8 称名の晩鐘(しょう みょうのばんしょう)の八つです。「東海道五十三次」で有名な歌川広重(寛政九年(1797)~安政五年(1858)、安藤広重ともいう)は、「武州金沢 八景」という版画を残しています。気に入ってもらえそうなのでお初どのへのお土産に買いました。一枚だけこっそりお見せしましょう。
一緒に黒船を見た不思議なお人のことは先の手紙でお知らせしましたね。あまりに唐突に話しかけられたので、うっかりして名を名乗らずに別れてしまいまし た。最初はずいぶんあけすけに、大胆なことを話す人だとびっくりしましたが、半日あまり一緒にいるうちに、このお人はとてつもなく大きな器の人で、もしか すると日本を大きく変える力を持っておられるのではないかと思うようになりました。あれだけ重大な話を、あっけらかんと見ず知らずの私にお話になり、しか もわずか半日のお付き合いでも人の心をとらえて離さない魅力を持っておられる方には、今までお目にかかったことがありません。けっして立派ではなく、蓬髪 でむしろみすぼらしい身形のお方でしたが、明るくて屈託がなく、内側から滲みでる人間としての輝きを感じさせる素晴らしいお方でした。
江戸へ戻ったら、私もあのお方がしきりに言われていた「日本の洗濯」を考えてみようと思います。まずは奉行所の中で何ができるのか。この国難のときに、奉 行所の組織をどう変えてゆけばよいのか、私なりに考えてみるつもりです。お初どのもときには相談に乗っていただけませんか。そのためにも、あのお方にもう 一度お目にかかって、もっとお話をお聞きしたいものです。お初どのにもお引き合わせしたいと考えております。
私が学んできた窮理という学問は、今回の黒船調査というお役にやっと役に立つことになりましたが、考えてみれば学問などというものは、お初どのが身につけ られたお料理の技や、お店の切り盛りの腕に比べたら、もともとそれほど世の中の役に立つとは思われません。しかし、私がむかし塾で学問を学んでいたときに は、何かの役に立たせようとか、さらには学問することによって偉くなろうとかお金を稼ごうとか、立派な家に住んで美味しい物が食べられるようになろうと か、そんなことは考えませんでした。今、私はそれで良かったと考えています。目先のものにとらわれないで、じっくりと学問をすることは、とても大切なこと だと思います。 私が塾で同門だった福沢という男が、こんなことを書いています。 兎に角に当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強ができたのであ ろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。
福沢は塾を終えてから名をなして、「訓蒙 窮理図解」という日本で初めての物理学の解説書を書きました。彼は阿蘭陀語も英語も堪能でしたから、この本は 幕末期の外国の物理学書を読みこなして、それを一般向けにわかりやすく説き起こしたもので、とても立派な本です。私が学問所で学んだ「あめつちまことのこ とわり」をはるかに越えたレベルの内容となっています。福沢の著書では、「学問のすゝめ」、「文明論之概略」、「福翁自伝」などがよく知られていますが、 残念なことにこの「訓蒙 窮理図解」は、その後ほとんど読まれていません。お初どのも機会があったら是非手にとって読んでみてください。きっと気に入って いただけると思います。
我が国は勉学の早い段階で、「文化系」と「理科系」に学生を分類してしまうという暴挙を行っている珍しい国です。これによって、政治家や事務官僚は物理 や数学がわからないことをむしろ誇りとし、一方、科学技術者は文学や歴史に暗いことを自慢する傾向があります。私はこれではいけないと思います。 政治的な判断を下すときには定量的なデータを読みとる力が必要ですし、技術戦略を立てるときには歴史観や政治観、ときには宗教観も必要です。文化系と理科 系の学問は、正しい判断をするためにどちらも欠くことのできないものであり、このふるい分けは早急に廃止すべきであると私は考えています。科学技術は結局 のところ道具ですから、正しく使いこなすには文化系の学問で培われた立派な人格が肝要と思います。
あ、もうこんな時間になってしまいました。お初どのはお店の片づけもすんで、湯屋に行かれるころだと思います。とんだ長話をしてしまいましたことをお許 しください。明日は奉行所に出仕した後で、また美味しい晩ご飯をいただきに寄らせてもらいます。
では、お休みなさい。
お元気ですか。メールしたいところですが今は江戸時代、ケータイがありませんので独り言を聞いてください。
おにぎりに私の大好物である塩鮭、昆布の佃煮を添えていただき、とても美味しいお昼を楽しむことができました。食べながら、お初どののことを思いだしまし た。お向かいの板橋屋さんのお嬢さんは、相変わらず意地悪をされますか。性格の悪い人は困ったものですね。あまり気にされませんよう。
浦賀で黒船の見取図を作り、金沢八景まで戻りましたが、日暮れになってしまいましたのでここで一泊し、明日数寄屋橋御門の南町奉行所へ戻ることにしまし た。わずかな日当では立派な宿には泊まれませんが、それでもお風呂につかって、身体を伸ばして眠れると疲れがとれます。有り難いことです。
ところでお初どのは金沢八景ってどことどこかご存じですか。金沢八景は、元禄七年武州金沢の地に立ち寄った中国僧、心越禅師(しんえつぜんし)が、能見堂 からの風景が故郷中国の瀟湘(しょうしょう)八景にそっくりであると絶賛したことから金沢八景と名付けられたものです。 瀟湘とは、中国湖南省(こなん しょう)の瀟江(しょうこう)と湘江(しょうこう)と呼ばれる川が合流して洞庭湖に注ぐあたりのことです。
金沢八景とは、1 洲崎の晴嵐(すさきのせいらん)、2 瀬戸の秋月(せとのしゅうげつ)、3 小泉の夜雨(こずみのやう)、4 乙舳の帰帆(おっともの きはん)、5 平潟の落雁(ひらかたのらくがん)、6 野島の夕照(のじまのせきしょう)、7 内川の暮雪(うちかわのぼせつ)、8 称名の晩鐘(しょう みょうのばんしょう)の八つです。「東海道五十三次」で有名な歌川広重(寛政九年(1797)~安政五年(1858)、安藤広重ともいう)は、「武州金沢 八景」という版画を残しています。気に入ってもらえそうなのでお初どのへのお土産に買いました。一枚だけこっそりお見せしましょう。
一緒に黒船を見た不思議なお人のことは先の手紙でお知らせしましたね。あまりに唐突に話しかけられたので、うっかりして名を名乗らずに別れてしまいまし た。最初はずいぶんあけすけに、大胆なことを話す人だとびっくりしましたが、半日あまり一緒にいるうちに、このお人はとてつもなく大きな器の人で、もしか すると日本を大きく変える力を持っておられるのではないかと思うようになりました。あれだけ重大な話を、あっけらかんと見ず知らずの私にお話になり、しか もわずか半日のお付き合いでも人の心をとらえて離さない魅力を持っておられる方には、今までお目にかかったことがありません。けっして立派ではなく、蓬髪 でむしろみすぼらしい身形のお方でしたが、明るくて屈託がなく、内側から滲みでる人間としての輝きを感じさせる素晴らしいお方でした。
江戸へ戻ったら、私もあのお方がしきりに言われていた「日本の洗濯」を考えてみようと思います。まずは奉行所の中で何ができるのか。この国難のときに、奉 行所の組織をどう変えてゆけばよいのか、私なりに考えてみるつもりです。お初どのもときには相談に乗っていただけませんか。そのためにも、あのお方にもう 一度お目にかかって、もっとお話をお聞きしたいものです。お初どのにもお引き合わせしたいと考えております。
私が学んできた窮理という学問は、今回の黒船調査というお役にやっと役に立つことになりましたが、考えてみれば学問などというものは、お初どのが身につけ られたお料理の技や、お店の切り盛りの腕に比べたら、もともとそれほど世の中の役に立つとは思われません。しかし、私がむかし塾で学問を学んでいたときに は、何かの役に立たせようとか、さらには学問することによって偉くなろうとかお金を稼ごうとか、立派な家に住んで美味しい物が食べられるようになろうと か、そんなことは考えませんでした。今、私はそれで良かったと考えています。目先のものにとらわれないで、じっくりと学問をすることは、とても大切なこと だと思います。 私が塾で同門だった福沢という男が、こんなことを書いています。 兎に角に当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強ができたのであ ろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。
福沢は塾を終えてから名をなして、「訓蒙 窮理図解」という日本で初めての物理学の解説書を書きました。彼は阿蘭陀語も英語も堪能でしたから、この本は 幕末期の外国の物理学書を読みこなして、それを一般向けにわかりやすく説き起こしたもので、とても立派な本です。私が学問所で学んだ「あめつちまことのこ とわり」をはるかに越えたレベルの内容となっています。福沢の著書では、「学問のすゝめ」、「文明論之概略」、「福翁自伝」などがよく知られていますが、 残念なことにこの「訓蒙 窮理図解」は、その後ほとんど読まれていません。お初どのも機会があったら是非手にとって読んでみてください。きっと気に入って いただけると思います。
我が国は勉学の早い段階で、「文化系」と「理科系」に学生を分類してしまうという暴挙を行っている珍しい国です。これによって、政治家や事務官僚は物理 や数学がわからないことをむしろ誇りとし、一方、科学技術者は文学や歴史に暗いことを自慢する傾向があります。私はこれではいけないと思います。 政治的な判断を下すときには定量的なデータを読みとる力が必要ですし、技術戦略を立てるときには歴史観や政治観、ときには宗教観も必要です。文化系と理科 系の学問は、正しい判断をするためにどちらも欠くことのできないものであり、このふるい分けは早急に廃止すべきであると私は考えています。科学技術は結局 のところ道具ですから、正しく使いこなすには文化系の学問で培われた立派な人格が肝要と思います。
あ、もうこんな時間になってしまいました。お初どのはお店の片づけもすんで、湯屋に行かれるころだと思います。とんだ長話をしてしまいましたことをお許 しください。明日は奉行所に出仕した後で、また美味しい晩ご飯をいただきに寄らせてもらいます。
では、お休みなさい。
右京之介
- 桜井邦朋:福沢諭吉の「科学のススメ」、日本で最初の科学入門書「訓蒙 窮理図解」を読む、祥伝社
- 福沢諭吉:福翁自伝、岩波文庫、岩波書店
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